――眠れない。
アスカは気怠い体をベッドから起こし、暗闇の中、枕元を手探って端末を探した。
しかし、見つからない。ひとつため息をついて、台所で水でも飲もうとベッドから下り、乱雑にドアを開けた。違和感。握ったドアノブを指先でなぞって形を確かめ、そこでようやく、此処が自宅ではないことを思い出す。
どうりで。それならば端末は電源を落として鞄の中だ。何故忘れていたのか。睡眠不足でぼんやりする頭を忌々しげに振り、一旦ベッドの側まで戻って適当に足の裏を払い、スリッパをつっかけて廊下へ出る。
もう遅いかもしれないとは思いつつ、なるべく音を立てないようドアを閉めた。月明かりの届かない真っ暗な廊下を振り返ったところで部屋へランプを置き忘れたことに気が付く。しかしこれ以上の物音を立てる気にはならず、取りに戻るのは諦めた。
床板の微かな軋みにさえ気を払いながらゆっくりと廊下を歩き、階段に差し掛かる直前。
「……アスカ」
ドア越しに掛けられた声に、アスカは足を止めた。誰が見ているわけでもないが、癖で頬を掻き苦笑を浮かべる。
「あー……すいませんエティさん……起こしちゃいました?」
「起きていた」
「そうですか……」
沈黙が流れる。何か用事があるのか、もう階下へ降りてもいいのか。伺うための言葉を探していると、ドアの向こうからアスカの予想を外した台詞が飛んでくる。
「入れ」
「え」
反射的に短く訊き返したが、それきりエティは黙り込んで返事はない。或いはアスカの返答が聞こえなかったのかもしれないが、しつこく聞き返すよりはとエティの部屋のドアノブに手を掛けた。
「……、失礼します……」
初めて開けるドアを顔を覗かせる程度に開いて様子を伺う。ベッドサイドの小さなテーブルに置かれたランプだけで橙に照らされた室内は、和室なら十二畳ほどだろうか。個人の部屋としては少し大きく感じる広さだった。そこへ配置された調度品はアスカが予想していたよりもずっと少なく、ベッドとサイドテーブル、小ぢんまりした机と椅子、造り付けのクロゼットのみ。本棚が置かれていない事が一番予想外だった。
アスカには、ドアの反対側の窓辺に置かれたベッドに入って上体を起こしているエティが、とても小さく思えてならなかった。距離のせいなのか、部屋の広さのせいか、それとは別の何かのせいかはよくわからない。
エティは膝元の本をぱたりと閉じてベッドの縁を指した。
「座れ」
アスカは戸惑いの表情を隠せぬまま部屋に踏み入って後ろ手にドアを閉め、そろそろとベッドの側へ寄って相手を見下ろす。エティのパジャマ姿など毎晩目にしてとうに見慣れているはずなのに、寝室という状況の為かやたらと後ろめたいような気持ちに襲われる。首筋や襟から僅かに覗く鎖骨に目が奪われそうになり、アスカは小さく唾を飲んで目を逸らした。
エティへ背中を向けるようにベッドの端へ腰掛け、きしりとフレームを軋ませる。
「……あの、どうかしましたか……?」
斜め後ろのエティの気配からか、ずっと心に垂れ込め続ける陰鬱な気持ちからか、或いはその両方から、意識を逃がすように問いかけた。視線の置き場が少なすぎる室内で、目は自然と光を放つランプに吸い寄せられる。繊細な模様が入ったガラスのシェードの中に灯るのは魔法の灯りではなく本物の炎で、それがオイルランプの類である事に気が付いた。理科実験で使ったアルコールランプに少し似ているが、それよりも火が大きいだろうかと興味を惹かれて手を伸ばしかける。
「何かあったのか」
「……え、」
「今日のお前はおかしい」
「…………」
宙に出した手を引っ込め、半笑いを浮かべた顔を横に向けると、真っ直ぐに自分を見つめるエティの赤い瞳と視線が絡んだ。きっぱりと言い切るその真摯な眼差しに、誤魔化しの作り笑いなど容易く形を崩す。
「あの、俺……」
口篭って視線を斜め下に逸らすが、直接見ずともエティが自分を見つめたままでいるのがよくわかる。膝元で手を組んで、うろうろと親指を動かしながら、なるべく当たり障りの少ない言葉を探した。
「あっ……たには、あったんですけど……家の事だし……聞いても、エティさん困るだけだと、思います……」
「口に出してお前が楽になる内容なら話せばいい」
「……人に話した事ないんで、楽になるとかは……わかんないですけど……エティさんを困らせたくないです……」
「お前一人の話も受け止められないほど俺が不出来に見えるか。 ……無理に話せとは言わんが」
否定のためにぶんぶんと首を振ると、疲労感の溜まった頭が少しだけぼやけて思考が滲んだ。
「そういうわけじゃないです、……じゃあ……聞いてもらっても、いいですか……? あの、面倒になったらやめていいんで」
「……。 わかった」
エティの短い溜息と返答を聞いてアスカは顔を前に戻す。話すにしてもどこから説明したものかと暫しの間考えてから、乾いた唇を舐めてゆっくりと口を開く。