「俺ね、養子なんです」
橙色の空気の中へアスカが零した言葉を、エティが掬い上げて呟くように反芻する。
「……養子……両親と血の繋がりが無いということか」
「はい。 そっか、エティさんにはあんまり身近な話じゃないですよね。 基柱石から生まれるから実の親とか関係ないみたいな事聞きました」
「……そうでもない」
「え?」
顔を向けると、エティは自分の膝元へ落としていた視線を上げ、再びアスカと目を合わせてゆるゆると首を横に振る。
「いや、いい。 続けろ」
アスカは曖昧に頷いて、顔をベッドの外へと戻す。本当にこんな事を話してもいいのだろうか。疑問は消えないが、話し始めたものは仕方がないと、長い間心の内に留めていた事実を吐露していく。
「……五歳の時に両親が事故で死んじゃって、母方の姉夫婦の家に引き取られたんです。 伯父さん叔母さんは俺にとても良くしてくれてるんです、けど……やっぱちょっと居心地悪くて。 兄……ほんとなら従兄弟ですね、いるんですけど、何かたまに思っちゃうんですよ、伯父叔母と兄貴と、三人だけで、いいんじゃないかって、俺……俺、なんでここにいるんだろ、って」
初めは躊躇いがちだったはずなのに、次第にまくし立てるように語る自分に怯んで言葉を切った。
腹のあたりをじわじわと握られるような、吐き気にも似た感覚。 今の今まで一度たりとも吐き出した事の無かった想いを、口にする事で心が再確認したかのようだった。深呼吸する背中にエティの手のひらがそっと触れて、たどたどしく上下に擦られる。アスカは前を向いたまま、泣き出しそうに顔を歪めて笑った。
「大丈夫です……すいません。 ……二人は俺の事、何不自由なく育ててくれてるんです。 しかも前に話してるの聞いちゃったんですけど、両親の保険金とか、何も手付けないで俺のために残してくれてるらしくて。 俺としては、それ使ってくれてたら、まだちょっとは気が楽なんですけど……そんな事こっちから突っ込んで言えないじゃないですか。 そんな感じで……ほんと、優しい人たちなんですよ……。 だから俺も、せめてなるべく余計な心配かけないようにって、門限とか絶対破らないようにしてたんです、けど」
できるだけ明るい声音で話すよう努めたのも虚しく、気丈に振る舞おうとすればする程声の震えが強まっていく。エティがランプの炎を消し、唯一の灯りを失った室内へ暗闇の帳が下りた。
「俺、門限破っただけじゃなくて、すげーひでーこと、言っちゃっ、て」
胸が詰まり、唇がわなないてうまく言葉が紡げない。再びの深呼吸と共に目を閉じれば、背中に触れる温もりをより強く感じ取れた。数度息をついて、自分の感情を宥め賺す。
「伯父さんがあんな怒るとこ見たことなくて、でも星ノ宮の事説明してもわかんないだろうし、そんでテンパって……ほんとの親じゃないくせにって、何がわかんだよって、怒鳴っちゃって……俺、俺っ……なんであんなキレたのか自分でも全然……わかんなくて……言いたくなかったのに、これだけは言っちゃいけないって、ずっとずっと思ってたのに……っ」
とうとう溢れ出した涙を拳の甲で拭おうとしても、堰を切ったようなそれらは次から次へと頬を伝って零れ落ちた。きりがないと焦れ、寝巻の袖を引っ張って拭う。
その腕がぐいと強く引かれ、突然の事にバランスを崩した体が後ろへ倒れた。暖かい何かが頭を覆い、アスカは未だ暗闇に慣れない瞳をいっぱいに見開いて息を詰める。
布団越しにエティの体の上へ倒れ込み、彼の鳩尾の辺りで頭を抱かれている。そう理解するのに、長い長い時間を要したように思えた。
「エティ、さ……っ」
事態を把握した瞬間、両頬が燃えんばかりの高熱を持つ。もがけどもエティの細腕に込められた力が緩まる事はなく、アスカは諦めてそのまま体を委ねた。布団越しに、エティの体温が自分の温度と行き交う感触。拍数の跳ね上がった心音が、どかどかと頭の中にまでけたたましく響き渡る。
「……謝ったのか」
頭上からの声は普段通りの淡々としたものだったが、却ってそれが、様々な感情で綯い交ぜになったアスカの心を落ち着ける。
「いえ……言うだけ言って、部屋閉じこもって、朝も居間に顔出さないで学校行ったんで……合わせる顔もないし……」
「そうか」
沈黙が落ちると、アスカの耳へエティの心音が微かに届いた。とくとくと、早いのか平常通りなのかはよくわからない。
あまり大きな音にならないよう注意を払いながら鼻を啜った。抱き込まれた驚きで涙は止まり、気持ちもそれどころでははなくなったが、今度はみっともなく泣き喚いた事実が羞恥と共に襲い来る。
「……これは俺の独り言だが」
エティが口を開き、アスカは黙ったまま頷いた。
「俺にも、両親がいた。 同じ種族の両親の、婚約の祝いに贈られたのが俺……正確には俺の基柱石だった。 俺はそれによって生まれる前から立場が固定される事になった。 生まれてからずっと、自由などなかった。 ……今になって思えばいくらでもやりようはあったんだろうが、その頃の俺はそれもわからず、ただ黙りこんで己の境遇を呪うしかなかった」
アスカは耳を傾けながら、こくり、と小さく喉を鳴らして唾液を嚥下する。
「そんな俺を近からず遠からず見ていた奴から、ある時言われた。 初めから分かり合えないと決めつけて、対話を拒否していたら何も変わらない。 それは目の前の可能性を自ら潰すのと同義で、少し悲しい事だ、と……言われた当時は理解できなかった……しようともしなかったが、今ではそいつの言う通りだったと思っている」
「……エティさんの両親は……今は?」
エティの指がアスカの黒髪へするりと分け入り、そっと梳いた。更に頬を紅潮させるアスカをよそに、細い指は何度も髪を梳く。
「もういない。 死んだ」
「……すみません……」
「ただの独り言に謝る必要はない」
ひんやりとした指の感触が心地よく、アスカはうっすら腫れはじめた瞼を柔らかく閉じた。
「……俺、帰ったらちゃんと謝ります……色々許してもらえるかわかんないし、またキレちゃったらって思うと、怖いけど」
「感情的になっても、お前の思う事を全て伝えないと意味がない……お前は、ずっと受け止めて貰いたかったものをぶつけたんだろう 」
閉じたままの目尻がまたじわりと濡れ、頬にひと雫流れ落ちる。
「……そう、なのかな……」
「……朝になったら、家に帰れ」
「え……?」
身じろぐアスカを宥めるように、エティはゆっくりと頭を撫ぜた。背中を撫でた時と同じでぎこちなく不慣れな手つき。アスカの表情から強張りが失せていく。
「お前の方ではまだ夕刻過ぎだろう。 早いほうがいい」
「……そう、ですよね。 そうします……すみません……」
それきり互いに黙り込み、静寂が室内を満たす。
やがて規則正しい寝息がエティの鼓膜を震わせた。薄く差し込む月明かりに慣れた瞳で、腹の上で眠る横顔を見つめ、涙の跡が残る頬をそっとひと撫でする。
「 お前は一歩を踏み出せた。 未だ無様に縛り付けられ、身動きを取れずにいる私とは、違う 」
呟きは誰に届くでもなく虚空へ消える。
熱を失ったランプの隣に置かれたループタイが、窓から差し込む月の光を柔らかく反射し続けていた。