左に曲がって、今度は右、再び左、次も左。
数メートル毎にぐねぐねと曲がる一本径は次第に細り、今や人とすれ違うのも困難そうな幅に窄まっていた。それでも不思議と躊躇う気持ちは芽生えず、飛鳥はただ歩き続ける。
「ん……?」
五つめの直角を右に曲がったあたりで、周囲の空気が大きく変わった気がして立ち止まる。
温度も匂いも肌の感覚も何もかもが違う、ふわりと軽い、ひどく懐かしいような居心地のいい雰囲気。どうしようもなく郷愁にかられるように胸が締め付けられ、アスカははっきりとした戸惑いを覚えた。
辺りはひどく薄暗い。塀だったはずの両脇はいつの間にかとても背の高い藪のようになっていて、空からの光を遮断するだけでなく、少し先で左右から道を覆ってしまっていた。行き止まりのすぐ近くまで寄ってみると、重なった枝葉の隙間から僅かに向こう側が透けて見えた。
……行きたい。 この先に、行きたい。
刹那、熱に浮かされるような強い思いが胸に過ぎった。
右腕で鞄をしっかりと体に引き寄せ、左腕で茂みを無理やり掻き分けて身体を通す。めきめきと小枝の折れる音と共に手や頬に傷が浮かぶが、強烈な衝動に突き動かされた気持ちに急かされ、痛みなどひとつも感じない。
藪を抜け、視界が開けた。
はじめに目に入ったのはひとつの建物。周りよりも大人ひとりぶん程度高い位置、赤煉瓦を詰んで建てられたそれは一般的な民家ほどの大きさで、左右に緩やかなカーブを描いて伸びる石畳の上り坂に抱かれるように鎮座している。他に建屋は見当たらず、自然の中にぽつりと一軒だけ建っている。
今しがたアスカが穴を開けたのはとんでもなく高い生垣のようだった。見回すとぐるりと三方向、建物を楽に越える高さで周囲を覆っている。
どこかの自然公園の隅にでも抜けたのだろうか?と、緩い坂を上りながら考えてみる。道の脇に植わる木々や草花が花壇や仕切りもなしに整然としているのは、人の手が入っているとしか思えない。
でかい公園、近所にあったっけなぁ……あったら知ってる筈だよなぁ。
首を傾げて歩くうち、すぐに建物の門扉が目に入る。石畳は向かいから同じように伸びてきた道と繋がるのと共に坂を終えていた。建物の正面方向へ真っ直ぐ伸び、少し先で左に折れ曲がって行き先を木立に隠している。
そちらを追うのはやめて、アスカは立ち止まって煉瓦造りに向いた。足元に背の低い看板のようなものが置いてあるのに気が付くが、そこに綴られた文字を読むことができない。今まで見たことのあるどんな言語とも違う、独特な文字。
何かの店かな?
開かれたまま固定された門扉とその看板とを見比べて、アスカはそう判断した。門を通って数段の階段を上がり、小さな看板のかけられた扉の前に立つ。念のため見回して、表札や呼び鈴のようなものが見当たらないのを確認する。
そっとドアノブに手をかけて引いた。
重厚そうな扉の外見に反して軽い感触で扉が開く。頭上からシャララ、と澄んだ音色が聞こえて顔を上げると、扉の内側に透き通ったガラスの鳴子のような飾りが取り付けられているのが見えた。外からの光を乱反射してきらきらと輝いている。
室内に目を移して、アスカは思わず怯んだ。ここからは奥行きと天井の高さしか伺えないが、そのどちらも大きすぎる。どう見ても、こぢんまりとした外観とは全く釣り合っていない。
これ、図書館? うちの高校の体育館より広いんじゃ……?
入り口から奥まで一直線に深赤の絨毯が張られ、左右に規則正しく書架が並んでいる。棚はアスカの身長のゆうに4,5倍はあろうかという高さで、隙間なくぎっしりと本が詰まっている。
最奥は階段を上がって左右に分かれ、本棚になっている壁を利用するための吹き抜けになっているようだ。
天井は高く、書架の上部からまだ余裕がある。シンプルな丸い照明が等間隔に下がり、暖色の優しい明かりが店内を照らしている。
絨毯はまるで張られたばかりのように染みひとつなく、靴のまま店内に入るのが躊躇われるが、靴を脱いだり履き替えるような備えも見当たらない。少し迷って、柔らかく足を押し返す絨毯を両足で踏んで後ろ手に扉を閉めた。
教室ほどの広さのエントランスの右手端には、こちらを向いた机と椅子が一対。古そうだが重厚な板に丁寧な彫りで装飾が施された机に、椅子は揃いのアンティークに見える。それらの左右には本が床に直接積み上げられて山を作っている。机はレジカウンターの代わりなのか、広い机上には無造作に散らばった紙束のほか、これまた古めかしいレジスターが鎮座していた。レジがあるという事は、図書館かと思いきや、本屋か何かなのだろうか。
机を横目に観察しながら一番手前の本棚に近寄って、目についた本の背表紙を撫でた。革張りで文字が箔押しされた立派な本。古い洋書のようだ、と直感的に思った。そんな物は映画の中でしか見た事が無いのだが。
革張りだったり布張りだったりと多少の差はあるが、巨大な書架に詰め込まれた本は全て同じような古書の群れに見えた。表の看板と同じ、見たことも無い文字でそれぞれのタイトルが綴られている。
きょろきょろと首を振って伺う店内の幅も、もはや当然のように建物の外見を凌駕している。むしろ奥行きより横幅のほうが広そうだ。
どう考えてもおかしいよな、ここ。
そう思いはすれど、これはこういうもの、と受け流せてしまうような不思議な感覚。
アスカは書架を離れて店内中央の絨毯の上に戻り、階段のほうへ向かって歩いた。天井近くにちいさく切り取られた窓からさす光や通路の隅に積み上げられた本、色々なものに視線を奪われながら、ゆっくりと。