:: RM>>01-03




 歩いているうち、ひとつの通路が壁の方で本の山に完全に塞がれているのが目に入った。何気なく眺めながら一度通り過ぎて足を止める。そのまま後退して通路に目を凝らし、目を疑った。

 「……んっ?」

 その山の前で、本のようなものが一冊、ぷかぷかと宙に浮かんでいるのが見えるような気がする。
 好奇心に導かれるまま、迷いなく通路に踏み入った。小走りで近付いていくうちにはっきりと見えてくるそれはやはり本で、開いた頁を床のほうへ向け、その場で僅かに上下しながら宙に浮かんでいるようだ。
 何気なく床に視線を遣ると、本の山に脚が投げ出されているのに気が付いた。

 ……人だ。

 今にも駆け出しそうなほど急いていた歩調を緩め、注意深く近付く。その本の山は他の通路の合間やカウンターの横で綺麗に積まれたものとは違って、ぐちゃぐちゃと乱雑に散らかって重なり合っていた。ページが開いてしまっているものも少なくない。
 その低く窪んだ中心、本に埋もれて、一人の少年が眠っていた。
 彼を視認した瞬間、自分のすぐ隣で確かに宙に浮いている本の事などどうでもよくなる。アスカは呼吸も忘れ去り、仔細に少年の寝顔を観察した。
 くすんだ緋色をした絹糸のような髪が、窓から射す細い外光を受けて煌いている。前髪の隙間から覗く同色の睫毛は長く、陶器のように滑らかで白い頬に影を落としていた。ほんの少しだけ開かれている唇はとても柔らかそうで。
 白いシャツの襟には金の飾りのついた紐タイが通り、羽織った緑のカーディガンが少しはだけて、革のサスペンダーが濃茶のチノパンを吊っているのがわかる。そのいでたちに微かな違和感を覚えた。アスカより僅かに歳若く見える少年が着るには不相応に感じるのだろうか。





 寝顔とはいえ、少年の顔立ちは今まで見た事がないほど整っているのがわかる。立派な書架や散らばった古書、差し込む光などの情景と共に切り取ると、まるで一枚の絵画のよう。
 余程深い眠りについているのか、アスカの気配に目を開く様子もなく、死んだように。

 ……死んだように?
 
 「……んんっ?」

 美術品を鑑賞するようだった視点と気持ちを現実めいたものに切り替え、改めて少年を注視する。まるで死人のように肌の色は青白く、唇からは寝息すら聞こえない。胸や腹の上下も、見られない。

 「えっ、ちょ……ちょっと! 大丈夫っすか!?」

 慌てふためきながら本を掻き分けて少年の隣に膝をつき、両肩を掴んで乱暴に揺すった。途中で何かに肘を強打して鈍い音が聞こえたがそんな事はどうでもよくて、アスカは血の気を引かせながらがくがくと相手の肩を揺さぶり続ける。

 「ま、まさか……死……」
 「んん」

 肩から手を離しかけたちょうどその時。少年の眉が潜められ、唇から微かに苦しげな声が洩れた。気づいたアスカは揺り動かすのをやめ、肩を掴んだままじっと少年の顔を見つめる。
 掌におさまるほど肩が華奢だとか襟元から覗く首が細いだとか余計な事を考えているうちに、少年はゆっくりと目を開いた。
 とても深い赤色の瞳。外光による煌きと長い睫毛によって落とされた影のコントラストが、宝石のような美しさを作り出す。
 少年は気だるそうにゆるくかぶりを振ってから、ようやくアスカに気が付いて視線を上げた。黒く濡れた双眸と目が合ったその瞬間、驚愕したように息を詰めて瞳を大きく見開く。暫く硬直しつつもアスカの顔をじっと見て、ああ、と一人納得したかのように呟いて小さく頷いた。伏し目がちで物憂げな表情に戻り、独り言のように問う。

 「……本は」

 低いトーンの声は病人のように頼りなく、生きてはいたが今にも命が尽きてしまうのではないかと再びアスカの不安を掻き立てる。

 「本? 本って!?」

 勢い良く、死にゆく相手の最後の言葉でも聞こうとするかのように問い返すアスカに、少年は微かに表情を動かしてほんの少しだけ笑って、言葉を紡ぐのもしんどそうに言う。

 「えらく魔力に溢れた本がないか……このへんに」
 「ま? え? まりょく?」

 あまりに聞きなれない単語を反芻しながら少年の肩から手を離して辺りを見回し、左脇に落ちていた青い表紙の一冊を直勘的に掴んだ。これは確か、浮いていたやつ!

 「これ!?」
 「……それ貸せ……」

 言われるまま、床から僅かに持ち上げられた少年の手に本を握らせた。瞬間、強い風が辺りに吹き荒れ、散らばった本が数冊吹っ飛ぶ。

 「え、……ええッ!?」

 猛烈な風に反射的に顔を腕で覆い、なんとか片目を開いて少年を視界に入れる。眉を寄せて瞼を閉じた横顔を見つめているうちに徐々に風は弱まり、やがて何事も無かったかのように静かな店内に戻った。数分間は風が吹いていたように感じたが、実際は数十秒と短い間だったようにも思える。
 少年が再び瞳を開いた。顔色は変わらずよくないが、紙のように白かった肌にほんの僅か赤みが戻ったように見える。少年は一度、細く長く息を吐いた。
 本の山から億劫そうに体を起こし、書架に手を付いてふらりと立ち上がる。咄嗟にアスカも腰を上げ、背中に腕を回して華奢な体を支えた。少年はやんわりとアスカの腕を押し戻し、首を横に振る。

 「もう何ともない。 ……助かった」
 「な、ならよかったけど……今の風って何……? ていうか、その本、さっきまでなんか浮いて……なかったですか……?」

 右手に携えられたままの青い表紙の本を恐る恐る指すアスカを少年は呆れたように一瞥し、背後の本の山を振り返って軽く左手を翳した。
 すると、本の一冊一冊が宙に浮かび、意思を持っているかのようにひとりでに積み重なっていく。アスカが数度瞬きする間に、風で吹き飛んだ物も含め、散らばっていた全ての本が綺麗に床に積み上げられた。

 「うわ……、」
 「おい……まさかこの程度に」
 「スゲー!! なになになに、君、今のどうやったの!? 手品!? 魔法!? なッ」

 無遠慮に少年の左手を両手で包んで持ち上げながら目を輝かせて喚くアスカの額を、右手に持った本が襲って鈍い音を立てる。

 「痛って……カドで……カドで殴った……」
 「いちいち喧しい……ついて来い、質問に答える。 それと」

 涙目で額を押さえるアスカを、少年がじとりと横目で睨んだ。

 「お前の事も話してもらうぞ」



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