:: LS>>01-01




 どこまで続くかも判然としない広大な洋上に、一つの大陸といくつかの小島だけで成り立っていたこの世界。
 何も無かった筈の場所に忽然と、前触れ無く新たな2つの大陸が出現したのが二年前。
 その二大陸に住まうのは、人間とよく似ているがどこか異なる二つの種族。
 二種族も口を揃えて言った。『突如、見知らぬ二つの大陸が現れた』と。



 三つの種族の民は他の民と共生するでも対立するでもなく、今まで通りの平穏な生活を続けている。――表向き、は。



***



 遮るものなく視界いっぱいに広がるのは、晴れ渡った青い空。ぽつぽつと点在する雲がゆったり流れ、こんな状況でなければ「いい天気」とでも呟いて深呼吸しているところだ。
 つまり現在はそれどころではない。時折吹いてくる風に鼻をひくつかせて、砂埃の匂いしか嗅ぎ取れない事実に深呼吸どころか弱弱しい溜息が洩れる。
 乾燥しきった唇を舐めると口中に砂の味が広がって、渇きが余計に強く感じられた。喉の奥が張り付くよう。舌打ちをする気力もなく、ほんの少しだけ顔を歪める。大きな金色の瞳をそっと閉じた。
 荒野の真ん中に倒れ込んでからどれくらい時間が経っただろうか。傾きかけた太陽の強い光線に、地面へ投げ出した華奢な二の腕をじりじりと焼かれるのがたまらなく不快だ。
 そもそもどこで間違ったのだろう?と、空腹感に支配されてろくに回らない頭で考える。

 コンパスが壊れていたのがいけなかったのだ。
 山越えを前に、港町で購入してから初めて蓋を開いたそれは、ぐるぐると針が回り続けるだけで待てども暮らせども振ろうとも投げようとも一向に止まる気配を見せなかった。散々焦れた挙句に激昂した彼によって岩肌に叩きつけられ、本体と針が分離してようやく回転をやめた。とどめを刺した、とも言える。
 そこからはまさにとんとん拍子。持ち前の無鉄砲さでがむしゃらに山を越え、心の向くまま裾野を抜けて歩き続けたところまでは良かった。食糧がなくなり水が尽きた頃には、360度地平線しか見えない荒野のど真ん中。
 方向音痴を自覚していながら何故地図を買っておかなかったのかと自分を呪いかけたが、どのみち使えないコンパスを掴まされていた時点で同じ結果だっただろうと思い直す。こうなってしまってからの後悔に意味はない。
 白昼にも見ることのできる三つの大きな星、その少し上に浮かぶ昼の白い月ふたつ。小さいほうの月の下弦が自分を見下ろして笑っているように見えた。つられて口角が上がり、微かな痛みと共に上唇が割れる。
 水分に飢え乾いた声で呟く。

「……死ぬかも」



***



 見渡す限りの不毛な大地。荒野を、精悍な顔つきの青年が行く。
 歳は若く、カッチリとした黒い衣服の上に右腕と両脚にだけ纏った赤黒い軽鎧が、歩を進めるごとにガシャリと音を立てる。
 短く刈り込まれた黒髪は白目がちな鋭い目つきによく似合う。髪も瞳も、陽光を受けると鎧と似た色に煌いた。背が高く、服の下の体つきもしっかりとしていて、戦士の見本のような出で立ちだ。
 黙々と歩くのは、周囲の砂地とほんの僅か色の違う土で引かれた太い街道。この先のなだらかな丘を越えると、青年の住む街が見えてくる。
 もうひといき。青年は短く息をつくと、肩にかけた大きな麻袋を反動をつけて背負いなおした。背中に括った大振りの斧槍が揺れる。袋の底には青紫色の液体が染みて、青年の足跡を追うように時折地面に滴っていた。
 日暮れ前には戻れるだろうか。ずっと足元にばかり遣っていた視線を上げて橙色に染まりゆく空を仰いでから、何気なく進行方向に目を遣った。
 双眸を細めてその先を凝視する。道の真ん中に、何かが見える。
 程なく、その『何か』の倒れる丘の麓まで至った。少し体を引きずり這ったような跡があり、うつ伏せで倒れるそれは、どうやら『人間に近いもの』であるらしい。小柄な身体に、見慣れないエキゾチックな衣服。やたらと露出が多い。頭の上から突き出た大きな獣の耳と、腰の辺りからにょろりと生えた長い尻尾が意味するのは――亜人。
 話に聞いたことはあるが、実際目にするのはこれが初めてだった。両腕の肘から先、服の裾から見える両脚も、ふさふさとした獣のもの。
 観察を終えて視線を丘の方へ戻し、立ち止まらずにそのまま脇を通過しようとする、が。

「……おい」

 下から声を掛けられたのと足首を掴まれたのはほぼ同時。
 危うく躓きかけた青年――スピネルは、立ち止まり足元を睨め付ける。
 亜人が、地面に突っ伏していた面を上げて睨み返してきた。土汚れのついた顔は人間のそれと殆ど同じつくりだが、やはりどことなく違和感がある。瞳孔が縦にぎゅっと閉じた大きな金色の瞳、耳と尻尾の形から推察するに、猫の特徴を持った亜人なのだろうか。髪の色は薄紫、耳と尻尾と同じ色。

「普通、倒れてたら、大丈夫かとか、水飲むかとか、何か食うかとか、聞くもん、だろッ」

 ぜえぜえと途切れながら捲し立てられた言葉で大体の事情を察したものの、スピネルは黙ったまま無表情を崩すことなく亜人を見下ろし続けた。
 沈黙が流れる。
 しばし睨み合っていると、亜人は突然体の力が抜けたように上半身を突っ伏した。額と地面がぶつかる鈍い音が響く。
 掴まれていた足首が開放され、爪先で薄紫の頭をつつく。が、ぴくりとも動かない。スピネルはその場にしゃがみ込み、細い二の腕を掴んで亜人の上体を引き上げた。瞳は伏せられて、口は半開き。どうやら空腹のあまり気を失ってしまったらしい。
 スピネルは天を仰ぎ、大きく大きくため息をついた。



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