古書店裏手の庭、両隅に突き出た細い木の間へ渡されたロープに、柔らかな風を含んだ白いシーツが揺れている。
足元に置いた籠からもう一枚を取り出して、魔法を使っているのだろう、ふわりと隅まで広がった白布がまたロープに掛けられる。
寒空の下、いつものように薄着へカーディガンを羽織るだけの小さな背中を捉えると、抜け穴に足を踏み入れるのを一瞬躊躇ったことなどあっという間に頭の中から追いやられた。
「エティさん」
彼の肩が微かに跳ねたように見えたのはアスカの思い過ごしだっただろうか。間をあけずに振り向いた細面で蒼い瞳が揺れた。
「学校はどうした」
「早退しました」
「……どこか悪いのか」
肩を上下させて息を整えているアスカの様子に、エティの首が微かに傾げられる。
一度大きく息を吸って吐き、ひたとエティの瞳へ視線を絡み付けた。いつになく真っ直ぐ此方を見返してくる彼の瞳には、自分の眼差しがどんなふうに見えているのか、そんな慮りがちらりと過ぎる。
「エティさんに、逢いたかったから」
エティは二、三度目を瞬かせてから瞳を伏し、アスカに背中を向けた。干したシーツのそれぞれの両端へ木製の小さなクリップを留めていく。
空になった洗濯籠を持ち上げて、やっと息の整ったアスカの横を通り過ぎた。
「……立ち話をしていても仕方がないだろう」
背中越しにそう促され、エティに付いて古書店へ入る。普段より早い時間に訪れているというのに久しぶりのように感じるのは、自分の世界にいる間絶えずエティの事ばかり考えていたせいなのだろうか。
アスカは上着を脱いで、ダイニングのいつもの席へつく。隅の方に籠を置いたエティが薬缶を火にかける。棚から二脚のティーセットを取り出し、紅茶の準備をしはじめた。
「そんな理由で早退していたら、身内に心配をかけるんじゃないのか」
「俺にとっては、『そんな』なんて軽い理由じゃないです」
「……。 論点はそこじゃない。 わかるだろう」
「……っ」
アスカは食い下がろうと口を開きかけたが、すぐに止めにしてテーブルへ視線を落とす。彼の言葉は正論であって、自分はただむきになりかけているだけだと自覚した。
はい、と小さく頷く。
「養父や養母に心配をかけるような行動はお前の本意ではないはずだ」
「……中学ならともかく高校だし、一回二回の早退じゃ家に連絡とかはいきません。 大丈夫です」
「だが今後も繰り返すつもりならばそうはいかないだろうな」
「…………」
繰り返しはしない。そう言いかけ、自分が口にしようとしたそれが以前のように古書店へ通う事を前提としているのだと気が付いて、また黙りこくってしまう。
エティの言に窘める厳しさが含まれでいるのは確かだろうが、刺のようなものすら感じてしまうのは己の被害妄想のせいなのかと自問した。
嫌われてしまったのだろうか?と。結局のところ、恐れているのはそれなのだ。わかっているのに、声に出して尋ねることはできない。
微かな時計の針の音が聞こえる。茶器が触れ合う音がする。どんどん悪くなっていく居心地にテーブルの下で足の位置を変えると、右足首に絡んだアンクレットの存在を思い出す。
もしももう二度と此処へ来る事が許されないならば、これも返さなければならないのだろうか?消沈しきった心が鳩尾のあたりをじわじわ締め付ける。
目の前に紅茶が置かれた。潤みかけた瞳もそのままに顔を上げる。エティがいつもどおり、アスカの向かいの席に腰掛けた。
「いいか。 俺を理由に早退をするのは二度と止せ。 俺だって、教育の大切さくらい知っているつもりだ」
エティの言葉の意図が汲めず返事に困ったアスカは、紅茶を飲む彼を上目に見つめるだけしかできなかった。
縋るような、何か訴えかけるような目をしている事などまったく自覚はしていない。エティは長い溜息を吐き出し、黒い瞳からついと視線を逸らした。
「……いつものように、学校が終わってから帰って来ればいいだろう。 俺は逃げも隠れもしない」
瞳をいっぱいに見開き、身を乗り出しかけるのを寸でのところで堪え、アスカは遠慮がちに尋ねる。
「いいん……ですか?」
「好きにしろ。 誰が来るなと言ったんだ」
強張っていたアスカの表情がようやく緩む。それを横目で一瞥し、エティは席を立った。
「飲み終わったら店へ出て来い、仕事がある」
「……はいっ!」
ひときわ大きな声での返事を聞いたのち、エティが店へと出て行く。アスカはぱたんと扉が閉められるのを見届けてから、表情をくしゃりと崩した。
『帰ってくれば』。エティは確かにそう言った。きっと嫌われてはいないのだろう。安堵感や嬉しさがこみ上げて、今にも涙が零れてしまいそうだった。
ひとまず落ち着くべくカップに口をつけて、紅茶をひとくち含み……とうとう、頬にひとしずく伝う。
はじめて古書店を訪れたあの日に、アスカが気に入ったフレーバーティー。茶葉を切らしてから暫く経っていたはずなのに。
アスカは嗚咽が洩れてしまわないよう堪えながら、暫しの間袖口で目元を拭い続けた。