:: RM>>17-01




 眼前で空間を切り開いている裂け目のゆらぎが、くらくら揺れる視界と混ざり合って吐き気を一層強くする。
 自分を取り巻く全てから現実感が失せている。否、とうに思考は止まっていたのだ。荒らされ尽くした城内。逃げ込んだ暗い小部屋。体にこびりついた血のべたつき。火のにおい。遠くから響く剣戟や怒号さえ、己とは関係のない出来事としか思えない。
 裂け目の中の暗闇が、触れるもの全てを平等に消し去りそうな黒が、耳の内側に残る彼の声を呼び覚ます。静かに落ち着き払った声音で紡がれた、叶わぬ、甘い夢のような言葉。額に触れた熱い唇。掌へ落とされたひとつの欠片。
 直黒の瞳を細めて向けられたのは、きっと、最後の笑顔。
 瞼の裏に焼き付いて残るのはいつも見上げていた精悍な貌ではなく、戦場に舞い戻らんと身を翻し、漆黒の外套をはためかせる広い背中だった。その背に手を伸ばしたかった。我先に溢れようとする、零し方すら知らない感情たちが喉に詰まり、彼への返事はおろか、声のひとつも出す事が叶わなかった。
 短い嗚咽が喉を突き、自分の両頬がひどく濡れているのにようやく気付く。二度目、強く促す声と共に、侍従の手が背中に触れた。
 残響を信じるにはあまりに絶望が過ぎる。それでも、何も持たぬ自分は、ただそれに頼るしかない。細く弱い絹糸のような約束に縋り付く事しか、できないのだ。
 受け取って以来ずっと握り締めたままの欠片を胸に抱き、震える脚で一歩進み出る。瞳をぎゅっと閉ざし、他の全てを振り切るように駆け、境界の中へと飛び込んだ。




 あの時もしも、声を上げる事ができたなら、
 行かないでくれと縋る事ができていたなら、
 運命は、変わっていたのだろうか?



 …………
 ……。



 何かから逃げ出してくるように意識が急浮上し、暗闇の中、真紅の瞳がいっぱいに見開かれる。天井に向かって伸ばされていた自らの細腕から力を抜いて、下ろしたその手の甲で目元を覆いながら、荒い呼吸を整える。
 顔を横向けてサイドテーブルの時計に視線を遣り、窓からさす細い月明かりを頼りに文字盤を読んだ。夜半過ぎ。寝付いてからそう時間は経っていない。
 緩慢な動作で上体を起こした。背中にじっとりと広がる汗が衣服を湿らせて気持ちが悪い。
 着替えなければ。いや、それより先に、カラカラに乾いて貼り付く喉を潤したい。
 そっとベッドから降り、できるだけ音を立てないように部屋のドアを開けたところで、今晩は隣室の間借り人がいない事を思い出す。ついさっき、夕食の後に送り出したばかり。
 久方ぶりの悪夢にひどく動揺しているのをようやく自覚し、エティは弱々しく頭を振って扉の前にへたり込んだ。



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