強風で散乱した枝葉を踏み歩いて双子の家へ着いても、いつものように戸口から籽玉が顔を覗かせることはなかった。
何も考えずに古書店を出てきたはいいが、もし籽玉がまっすぐ帰っていないなら入れ違いになってしまうかもしれない。そう遅れた心配をしながら、扉の横の呼び鈴から垂れた赤い房を左右に揺らした。金属特有の澄んだ音色がきんきんと鳴り響く。
そのまま少し待っても家の中から反応はなく、もう一度だけ鳴らしてみようと手を伸ばしかけた頃、ようやく扉が開いて白い髪がひょこと覗いた。
「籽玉、忘れ物……大丈夫か?」
見上げてきた籽玉の顔に感情の色はなく、その無表情は彼の顔の造りが琅玕と瓜二つである事を改めて感じさせる。ほんのり赤く腫れた瞼を擦りながら、アスカが差し出した肩掛けを受け取った。
「……謝謝。 お茶くらいは出すから、お上がりよ」
「あ、や、俺すぐ……」
抑揚のない声で呟いて扉を大きく開ける籽玉に、アスカは頬を掻きながらぎこちなく視線を彷徨わせる。
「心配しなくてもこの間みたいな事はしないよ。 ぼくもそんな気分じゃないしね……」
好きにしたら、と低く言い残して、籽玉は玄関を開けたまま居間の方へ戻って行ってしまう。アスカは吹き付ける風に勢いよく閉まりかけた扉を咄嗟に押さえ、少し迷ってから自分も家の中に入って戸を閉めた。強風で乱れきった髪を手櫛で軽く整える。
「お邪魔します」
籽玉は台所で茶を淹れる準備をしているようだったため、卓の椅子をひとつ引き、大人しく座って待つ事にした。隣の椅子には、アスカがクリスマスに籽玉へプレゼントしたパンダのぬいぐるみがちょこんと座っていて、背凭れには同じく琅玕に贈ったエプロンが掛けられている。
部屋の調度品をあれこれ眺めているうちに、籽玉が卓へ盆を置いた。硝子製の茶壺の中で、丸く圧縮された茶葉がゆらゆら上下に浮き沈みしながら少しずつ広がっていく。一分ほど待ってから籽玉は茶壺の湯を同じガラス製の小さな水差しのような容器に全てあけ、そこからこれまた揃いのガラスで出来た小さな二つの茶杯に注ぎ分けた。アスカは無言でずいと差し出されたそれに口を付けながら、そっと籽玉を盗み見る。
琅玕とそっくりな表情のまま消沈しきった様子は普段のころころとよく喋って笑う姿とはかけ離れていて、痛々しすら覚えてしまう。この双子の間に口を挟むのは野暮かとも思っていたのだが、やはり見てはいられずにアスカは口を開いた。
「籽玉、琅玕と喧嘩してるのか? どうしたんだよ、いつもあんなに仲いいのにさ」
籽玉は手の中の茶杯をなぞっていた指を止め、卓の上に置いていた肩掛けを手繰り寄せた。
「今日は一段と冷えるだろう? 朝、出掛け間際に、この上着だけじゃ寒いからそろそろ新しいものを買おうと言われてね」
視線を落としたままの籽玉が、普段よりずっと低い声音で語り始めた。肩掛けの襟元をぐるりと囲んでいる毛皮をそっと撫ぜると、たっぷりとした毛並みが外からの光をつやつやと反射しながら籽玉の指に絡む。
「……これ、毛皮の部分が上等なもので少し高価だったんだけれど……ぼくが市場で見かけて欲しがっていたのを悟って、琅玕が買って来てくれたんだ。 だから他の物はいらないし……もし替えるなら、琅玕が選んで買って来てくれたやつじゃないと嫌だから」
「琅玕にはそう言ったのか?」
「不是……自分で説明してしまったら意味がないじゃない。 ならアスカに買ってもらうって言ってみたら、じゃあそうしたらって返されて……」
肩掛けをぎゅっと抱き、毛皮の部分にふわふわと頬をすり寄せて力ない溜息を吐いた。
「意地になっちゃったんだな。 琅玕なら、ちゃんと話せばわかってくれるんじゃないのか?」
「……わかってはいるんだと思う。 琅玕がぼくのして欲しい事、わからない筈がないもの。 でも……」
籽玉はそこで言葉を切り、ふっと笑んでアスカの方へ顔を上げた。
「そんな事で、って思ったろう? 喧嘩の経緯なんて、他人が聞けばそんなものなのさ」
しかし形だけの笑顔はすぐに崩れ、籽玉はまた表情を引っ込めて窓の外へ目を遣った。つられてアスカも外を見るが、木々が風に凪いでいる風景以外に特別見当たるものはない。
「もしかして琅玕帰ってきた?」
「……だろうね」
肩掛けを卓に戻しながら外を見る顔に少しだけ浮かんだ苦々しさに初めて籽玉の表情から外見年齢に合ったものを見つけた気がして、アスカの頬が自然と柔く綻んだ。
「ちゃんと素直に謝ったらわかってくれるって。 な?」
「……何だい、ニヤニヤして……」
「いやぁ?」
振り向いた籽玉が怪訝そうに問うと、アスカは頬杖をついて笑みを深める。
「なんかさ、籽玉って琅玕の事になると素になるっていうか……何だろ。 うまい言葉が出てこないけど……アレだ、可愛いとこあんじゃん」
「……ッ!?」
アスカからの言葉に絶句すると共に玄関から扉を開ける音が聞こえてきて、籽玉は翠の瞳をきょろきょろと忙しなく彷徨わせながら狼狽する。
「や、な、そ、そんな事ないもんっ……やめてよね、変な事言うの!」
「あはは、籽玉真っ赤じゃん。 そういうのが可愛いって言ってんの」
からからと引き戸を滑らせて、仕事の上着と帽子を身に付けた琅玕が入ってくる。自分からぷいと顔を逸らせた籽玉と卓の上を見遣ってからアスカへ目礼をして、鞄と箒を壁際に置いた。そのいつも通りの澄まし顔からは、籽玉と喧嘩をしている様子など露ほども伺えない。
「琅玕お帰り。 あとお邪魔してます」
「ただいま……いらっしゃい、アスカ。 ……籽玉、自分でお茶淹れたの?」
「ぼくだってそれくらいできるよ、馬鹿にしないで」
頬の上気は治まったものの、先程までとは打って変わり、不機嫌を隠し切れない態度で籽玉は立ち上がる。茶壺を掴む両手は見てすぐにわかるほどかたかたと震えていて、止めたほうがいいだろうかとアスカが迷っているうちに籽玉は台所の方を向いてしまう。
籽玉の肩が強張ったのが先かガチャンと音が響いたのが先か、床に硝子片と茶葉が散った。
「「あ……」」
アスカと籽玉が同時に声を上げた。琅玕は上着を脱ごうとしていた手を止めてすぐに籽玉の傍へ寄り、しゃがみ込もうとする籽玉を制す。
「触るな」
「っ」
鋭い語気に籽玉は息を詰め、その場からふらりと一歩引いた。
「……危ないからおれが片付ける。 アスカも座っていていい」
琅玕は腰を浮かしかけていたアスカの事もやんわり制止すると、しゃがんで大きい硝子片を拾い集めていく。それをただ突っ立って見下ろしていた籽玉が自分の靴の傍に落ちている欠片に気が付いて屈んだ。震えが治まらない指先ではうまく掴めず、鋭角が指に強く触れて傷を付ける。
「痛っ」
「!!」
弾かれたように顔を上げて立ち上がった琅玕が籽玉の手首を掴み、流し台へ引っ張って流水で傷口を洗う。丹念に洗浄して引き上げられた指先に、水滴と鮮血が混じって伝う。琅玕は籽玉の指を躊躇いなく自らの口に含んだ。
「いた……い、琅玕……」
細く掠れた涙声に、琅玕は答えず血液を絞るように傷口を吸う。籽玉は眉根を寄せて唇を噛み、潤みきった瞳を吊り上げた。
「痛いったら!!」
「ッ」
舐められていた手を思い切り横に振り払うと、籽玉の爪が琅玕の左頬に一筋の傷を走らせた。遅れて、傷からぷつぷつと小さな玉のような血が滲む。
「……違……ぼく、っ」
籽玉は後退り、つい席を立っていたアスカの背後へ回り込んでぴたりとくっ付いた。アスカの背中に添えられた両腕がふるふると震えている。
「ま、まあまあ二人共、とにかく落ち着……っ」
琅玕に目を戻したアスカはその顔を見て息を呑んだ。冷たい炎を宿したかのような、いつにも増して鋭く尖った瞳に射竦められて背筋にぞくりと悪寒が走る。纏う雰囲気がぴしぴしと肌を打つようなこれは、怒りなんてものを通り越して、所謂殺気というやつなのかもしれない。思わず後退しかけて、背後に縋り付いている籽玉に押し戻される。
と、籽玉がアスカの背中から離れ、卓の上から肩掛けを引ったくって身を翻した。耳を打つような音を立てて引き戸を開け放ち、そのまま玄関から外へ出て行ってしまう。反動でゆっくりと戸が閉まるまでをぽかんと見届けてからアスカはようやく我に返り、そろりと琅玕へ向き直る。
「ろ、琅玕……大丈夫か?」
「……おれは、この程度すぐに治るから……」
頬の傷から浮かぶ血を手の甲で拭う琅玕からは先程までの殺気が嘘のように消え失せ、普段通りの無表情に戻っていた。ああ怖かった、とアスカは内心でほっと胸を撫で下ろす。
「追いかけなくていいの?」
「……まだ仕事が残ってる。 片付けたら戻らないと」
籽玉が出て行った扉を見たくないとでも言うかのように、琅玕はそっと瞳を伏せた。
「それに……おれも頭を冷やしてから話をしたほうがいいと思う。 ……すまない、今は一人にして貰っていいだろうか」
「ん……わかった。 何かあったら聞くからさ」
翠緑の髪に手を伸ばしてぽんぽんと軽く頭を叩くと、琅玕は顔を上げてほんの少しだけ瞠った目をアスカに向けた。触れられた場所に右手を当て、微かに頬を染めて困ったようにはにかんでみせる。
「……すまない……ありがとう」
外までアスカを見送って家の中へ戻り、琅玕は居間の片隅に置いていた鞄を開いた。贈答用に小綺麗な装飾が施された包をひとつ取り出し、赤い包装紙をじっと見つめて、溜息と共に卓の上へ置く。