どんなに喚き散らせども相手の態度は変わらない。濡れた瞳からとうとう大粒の涙が零れ落ちた。向けられたままの背中がこんなに遠くに感じたのは初めての事だった。
いつもならこんな事にはならないのに。いつもなら声を震わせたらすぐさま怒りは止むのに。いつもなら謝って撫でてくれるのに。いつもなら……。
わななく唇を無理矢理開いて、喉に痺れる痛みが走るのも構わず思い切り声を張り上げて叫ぶ。
「混蛋!! わからず屋! もう琅玕なんて知らない!!」
***
風邪で倒れた翌日にシイラによって改めて調合された薬を飲んだのが功を奏してか、あれほど酷かった症状は翌々日にはけろりと治まり、それからもう二週間が経とうとしていた。それもアスカの世界での暦だけを数えたもので、こちらの世界に泊まっているぶんそこへもう幾日かが加算されることなる。アスカの世界では大晦日と正月が過ぎて行ったが、この世界にはそういった風習も存在しないらしく……というより年が切り替わる時期自体が違っているらしく、冬めいていく気温の中で普段通りの日常が過ぎているだけであった。
そう、何事もなく。
己の中の恋心に気が付きはしたものの、なかなか行動らしい行動を起こせるわけではないのがアスカの性質である。冬休みを大いに利用してたっぷり星ノ宮へ通ったというのに、エティへ何か特別なアプローチをかけるわけでもなく、いつも通り店番をして仕事を手伝い、のんびり手を付けていた課題を終わらせた頃に三学期を迎えた。
行動だけでなく気持ちの方も、時折ふとしたエティの表情や仕草に惹きつけられたりするもののそれは考えてみれば前々からで、あの夜以来大きな気持ちの揺れ動きを感じる事はなかった。本当に、全くの普段通りである。少し焦れるような気持ちが芽生えていないとは言い切れないが、黙って本を読むエティの隣にいる時間はアスカにとって至福のひとときで、余計な事を考えるそばからもうこれでいいやと早々に満足してしまっている。
カラリと晴れて冷え込みの激しい冬空に強風が吹き荒れて雲を一つ残らず蹴散らす、こんな日の古書店は開店休業状態だった。朝から店にも出ず、揺り椅子に沈んで本を読み耽るエティをソファから眺めながら、アスカものんびり寛いでささやかな幸せを噛み締め……ていられるはずだったのだが、前触れなく訪ねて来るなり喧しく纏わり付いてくる籽玉によって、それは叶わない状態にあった。これはこれで、いつも通りである。
籽玉はアスカにしなだれかかり、軽く腕同士を絡めながら取り留めのない話題をアスカに振り続ける。アスカはそれに相槌を打ちながらちらりとエティの方を見遣り、ヤキモチなんか焼いてくれたらなぁ、などと妄想してみるが、そんな彼の姿はひと欠片も想像する事はできなかった。
「あーさっっっむかった。 オレにも紅茶くれよ」
「ぅおあッ!?」
考え事の最中に突如ソファの後ろ側からマシシが現れ、アスカは跳ね上がった。入ってくる物音ひとつ聞こえなかったのは妄想していたせいなのか、ばくばく跳ね上がる心臓を押さえるように左胸に手を遣りながら首を擡げて仰ぎ見る。その大仰なリアクションにマシシは満足気ににまりと笑んだ。リビングへ回り込み、アスカのカップを横から掴んで程よくぬるまった中身を一気に飲み干した。
「ごっそーさん」
「マシシ、鼻と頬が真っ赤だね」
暖炉の前に寄って冷えた体を暖めるマシシを指して、籽玉がケタケタと笑った。それに振り向いた顔は確かに赤く凍えている。
「うるへー。 寒すぎて人通りも少ねーったら……商売上がったりだぜ」
「それで今日は早く帰ってきたのか」
普段星ノ宮に滞在中は、特別用事がない限り夕方まで市場で露店を広げているのがマシシの常である。晴れた日、早い時間に古書店へ帰って来るのはごくごく稀な事だ。
「あ! エティさん、お茶のおかわり淹れますね!」
先日アスカが倉庫から引っ張り出して揺り椅子の傍らに置いた細脚の小さなテーブル、そこへ乗せられたティーカップの中身をエティが飲み終えたのを見て、意気揚々とソファを立った。ああ、と気のない返事を貰う事すら喜ばしげに、空のカップをいそいそとキッチンへ運ぶ。始めは必要ないと言っていたエティが、何だかんだ本を乗せたりカップを置いたりでテーブルを活用してくれているのが嬉しくて堪らないのだ。
そのいつになく浮かれた様に気が付いたマシシが片眉を跳ね上げて鼻白む。
「んだよ、オレに出す茶はなくてエティにはあんのかよ」
「お前は俺の飲んだだろ!」
「けっ」
「何だよもぉ」
マシシはつんとそっぽを向いて、アスカが溜息混じりに棚から新しいカップとソーサーを取り出すのを見てから満足気に笑んだ。一通りの流れを横目で眺めていた籽玉が低く呟く。
「お子様だこと」
「うるせーなッ」
赤面して睨み付けてくるマシシに、籽玉は軽く肩を竦めるだけで返した。