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 ふ、と暗闇に目を開く。
 目覚めたばかりだというのに強い違和感を覚える。アスカは寝ぼけた頭のまま体を起こしてヘッドボードのランプを手繰り寄せ、灯りを入れて辺りを見回した。

 「……なんだ……?」

 いつも通りの古書店内の自室。変わった事といえば、寝る前まで遊んでいたゲームの端末が枕元に出しっ放しになっていた程度だったが、引っかかりは拭えない。ランプを携え、スリッパを突っかけて部屋を出た。階下へ降り、リビングとダイニングを通り抜けて店内へ出る。
 広い空間には明かりひとつ灯らず、高い窓からは月明かりも殆ど入らない。ランプが照らす範囲の外、漆黒に塗り固められて真っ暗な店内にごくりと一度喉を鳴らす。それでも引き返す気にはならずに、後ろ手に扉を閉めて、初めて此処へ訪れた時よりもゆっくり絨毯を踏み歩く。
 中央の通路をずっと真っ直ぐ進み、中二階へ続く最奥の階段を上りきったところで足を止めた。正面の本棚へランプを寄せると、一部分が扉一枚ほどの大きさにくり抜かれているのが照らし出される。
 違和感の正体はこの先だ。自分でも出処のわからない確信を持って、本棚の中、細く急な下り階段に足を掛けた。右手の簡素な手摺を辿りながらゆっくりと下りていく。
 冷えた空気が少しずつ温まっていくのと共に、違和感がごく柔らかく肌を撫でられるような心地のいい感覚へと変わっていくように思えた。二階ぶん程度降りただろうかというところで階段は終わり、正面に向かって真っ直ぐ伸びる廊下の向こうで、半開きになった扉からオレンジの光が漏れ出ているのが見えた。
 歩み寄って顔を覗かせると、小ぢんまりとした部屋の中、右手側の壁際に付いた机の前、彫りの細かい木枠に革張りの大きな椅子に埋もれるように、エティが目を閉じて座っていた。

 ……ここが、本当のエティさんの部屋なんだ。

 誰に教わるでもない強い確信が胸を突く。部屋の壁面の殆どを覆う本棚、重厚なつくりの机と揃いの椅子。そこにはそれしかなかった。本を読む為だけに誂えられたかのような空間が、先日アスカが立ち入った寝室よりもずっとエティには似合っている。
 何故だか胸が締め付けられる想いがして、彼に声を掛けたくなった。邪魔になってしまうだろうか。椅子の背に深く凭れて眠るように瞼を伏せる横顔を眺めながら少し迷って、口を開こうとした時、エティの両手がついと持ち上がった。胸の前で何かを包み込むように翳された両手の中から、橙色の優しい色の光が迸る。

 「……!?」

 目が眩む光量が溢れ出るのと同時に、階段を下りながら感じ取りはじめた心地よさが息が止まる程激しく強まった。眩しさに一瞬目を閉じてから恐る恐る開くと、光はエティの手の中で形を取り、収まる頃には彼の手に一冊の本が掴まれていた。
 ゆっくりとエティが瞳を開き、右手でその革張りの褐色の表紙を撫ぜた。微かな声で紡がれた呟きが、おかえり、と聞こえたのは、アスカの気のせいだっただろうか。

 「っ」

 エティは隣で自分を見つめるアスカの存在にようやく気が付いてばっと振り向く。しかし、瞳が見開かれたのはアスカがそこにいたせいではなかった。

 「お前、何を泣いている」
 「……へ?」

 予想外の指摘を受けてアスカが自分の頬に手をやると、確かに濡れた滴が指先に触れた。

 「……マジだ……何で俺……」

 伸ばした袖口で目許を拭い、少しだけ鼻を啜る。

 「何か用事か」
 「や、目が覚めたら何か変な感じがして……こっちからかなーって歩いてたら、本棚に穴が開いてて……」

 納得したように小さく頷きながら、エティは手元の本をインクの瓶とガラス製のペン、ランプだけが端に寄せられている広い机上へ置いた。

 「その本って、今、何もない所から出してましたよね?」
 「出したというより、形にした」
 「エティさんが魔法で書いたとか?」

 エティは首を横に振りかけて止め、少し傾げながら暫し何かを思案して、角度を元に戻す。

 「……本にしたのは俺だが、内容に干渉はしていない」
 「へー……まだどんな内容なのかもわからないんですか?」
 「……」

 この黙り方は、質問へ答えたくない時のそれだ。いい加減に学習したアスカは早々に話題を切り替える事にして、室内の本棚を見回した。

 「その本って……店には出さないやつ、なんですよね?」
 「そうだ」
 「ここに置いてたんですね」

 特に真剣に読み耽った後の本を、エティが店ではない何処かへやっている事にはアスカも薄々気が付いていたのだが、彼の寝室には本棚が存在していなかったのを見てからは一体何処へ本を置いているのかと疑問に思っていたのだった。この室内の壁と化した本棚は既に隙間なく本が詰められていて、アスカの興味は机の隣にある一枚の扉に惹きつけられる。

 「その奥にもいっぱいあるんですか?」
 「……ああ」

 恐らくは、これもあまり触れられたくない話題なのだろう。アスカはそう判断して扉から意識を剥がした。

 「そっか、エティさんの魔法って本作る魔法なんだ。 さっきの光が……マジで泣いてたからちょっと恥ずかしいんですけど、ほんと切なくなるくらい綺麗で……」
 「……慣れない世辞を言うな。 何も出ないぞ」
 「本心ですってばー」

 アスカは笑いながら灯りを消した自分のランプを机上に置いてエティの後ろに立ち、彼の肩からずれたショールをそっと直した。そのまま肩に乗せかけて彷徨った両手を、椅子の背もたれに落ち着かせる。

 「本、何冊も作るんですか? まだ作るなら見たいなぁ」
 「……冊数はその時による。 見て面白いものでもないだろう」
 「俺は見てたいなぁって思いました。 あ、でも誰も居ない方がよかったら、もう戻りますけど」

 直されたショールの前を合わせながら、エティはふるふると首を横に振った。

 「……集中力は欠くが、別に問題はない。 好きにすればいい……座るところもないが」
 「ありがとうございます! じゃあ俺、隅にいますね」

 壁際に隙間なく据え付けられた書架と書架の間の木枠に立ったまま軽く凭れて、アスカはエティの横顔を眺める。また椅子へ深く体を預けて目を閉じるその様は、普段の物静かな振舞いのせいもあってか、本当にそこで眠りに落ちているように見えた。
 集中、と彼は言ったが、自分では本の内容には触れていないならその集中力は何に使われているのだろう?本を形にする事だろうか?それとも他に何かあるのか?
 紅い宝石を覆う薄い瞼を見つめながらとりとめなく考える。エティの両手がゆるりと持ち上がるのと、アスカが不意なくしゃみをするのとは、ほぼ同時だった。

 「……」
 「…………」
 「……スミマセン……」

 目を開けてアスカの方を見るエティに、手の甲で鼻をぐしぐしとやりながら小さく謝る。エティはふうと息をついて、重い音と共に椅子をずらして立ち上がった。

 「今晩はもう戻るぞ」
 「邪魔しましたね俺……すいません……」

 エティは机上のランプを二つ手に取り、申し訳なさそうに眉を下げた顔で自分を見てくるアスカへ片方を渡して戸口に立ち、扉に手を掛けた。

 「今日は気が向かないだけだ。 見たいならまた見にくればいい」
 「……ありがとうございます」

 アスカはへにゃりとゆるく笑うと、エティに倣って部屋の外に出る。外から扉が閉じられ、室内を静寂と暗闇が満たした。




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