:: RM>>08-01




 「アスカ」

 書架の整頓中、遠くから掛けられた声に振り向くと、店内中央の通路の上でエティが此方を向いて立ち止まっていた。

 「どうしました、エティさん」

 積み重ね抱えていた本たちを床へ下ろして小走りに駆け寄り、エティが無言で指した先へ視線を向ける。遠く、エントランスのカウンターに乗り上げて本の山を物色していた籽玉が顔を上げ、二人の方へ手を振ってくる姿が見えた。

 「籽玉? 俺に用事ですか?」
 「用事はないらしい」
 「……えーと、つまり……相手しろって事?」

 口元に手の甲を当てボリュームを絞った声で問えば、こくりと首を縦に振られる。頷き返し、整頓が終わった箇所を手短に報告してエントランスへ向かった。

 「你好アスカ、暖炉を使い始めたんだって? 暇つぶしに見に来たよ」
 「そうだけど……俺話したっけ?」

 カウンターをちらと見てカップの中の紅茶がまだ無くなっていないのを確認してから扉を開け、籽玉をダイニングに通す。

 「琅玕が、配達の途中で煙突から煙が上がっているのを見たと言っていてね? おや本当に火が入ってる。 アスカが掃除したのかい?」

 籽玉は暖炉の前でしゃがみ込んで安定した炎が穏やかに揺れる炉室を覗き、アスカを振り返る。

 「エティさんと一緒になー。 籽玉、お茶飲むだろ?」
 「……哦、あのエティがねえ……。 飲むけれどアスカ、火の使用許可は下りたのかい?」

 どうせ許可は下りていないのだろう、と言外に含ませからかうような籽玉の口ぶりに、アスカはにやりと不敵な笑顔で返してテーブルの上に置いてあった白い保温ポットを持ち上げた。

 「ふふん、下りてないけど俺にはポットがあるんだぜ」
 「とっぽ?」

 つるりとしたシンプルな外形を見て、籽玉は怪訝な顔で立ち上がり近付いてくる。

 「トッポじゃなくてポット。 最近の魔法瓶だから、これにエティさんが朝沸かしてくれたお湯を入れとくと、夕方くらいまでは冷めないってわけ」
 「魔法瓶? 魔法道具なのかい?」
 「違う違う。 俺の世界から買って持ってきたんだよ」

 苦笑いで訂正すると、不機嫌そうに短い眉を寄せた。

 「何だいややこしい。 そんな道具を持ってくるって事は結局魔力の制御もうまくいっていないみたいだし? あ、ぼくお茶は香檳がいいな。なかったら祁門ね」
 「ラベルの字読めねぇって。 どれ?」
 「……ふっ。 随分自信ありげな顔してるから少しは字くらい覚えたのかと思ったら、情けないこと……まあいいや、あまり匂いのきつくないやつなら何でもいいよ。 ……ふぁあ」

 籽玉は瞳を細めて鼻で笑い、ひとつ大きな欠伸をしたと思うと、ふらふらとリビングのソファへ向かって暖炉に一番近い角へ沈み込んだ。

 「そこまで言う事ないのに……。 文字かぁ……文字なぁ……」

 唇を尖らせながら壁の棚に並んだ紅茶の瓶を一つ手に取って、ラベルに書かれた文字を指先でなぞる。
 ついさっきまで任されていた書架の整頓も、ただ本棚の隙間を詰めたり戻し方のおかしい本を整えたりしていただけなのだ。せめて文字さえ読めれば出来る事もぐっと増えるのにと、時折こうして歯痒く思う。コンロの事だけではない。頭上の遥か高い書架へ梯子を伸ばす魔法道具さえ、万が一があったらと使用の許可は下りないのだ。

 「話し言葉は通じるんだし、ついでに文字も読めりゃよかったのになぁ」

 紅茶の瓶や缶を順番に手に取り茶葉の香りを嗅ぐ。一番くせの少ないものを選び、覚えたばかりの手順で紅茶を淹れる。ポットを持ち込んだのはつい昨日、説明を聞いてはじめは呆れ顔だったエティも、事前に調べてきた通りに淹れてみせれば感心しながら合格点を出してくれた。

 そうだ。こうやって一つずつ、力になれる事を増やしていけばいいんだよな。

 気分が落ち込みそうになるのを、首をぶんぶんと振ってやり過ごす。

 「お待たせー……籽玉?」

 トレーに紅茶を注いだカップを二脚乗せてリビングを覗くと、籽玉は少し俯いて目を閉じていた。ソファに座ったままこくりこくりと船を漕ぐのを起こさぬように忍び足で近寄り、そっとテーブルにソーサーを置く。しかしそのほんの僅かな音に反応したのか、籽玉の瞳がうっすら開いた。顔を上げ、何かを探すように視線が室内を彷徨い、やがてアスカを捉えて止まる。
 無言のまま長い袖で手招かれ、アスカは素直に籽玉の前に立った。ぺしぺしと自分の隣を叩いて座るように指示されて、すとんと腰掛ける。

「どうした?眠いのか?」

 据わった翠の瞳を覗き込むと、籽玉は自分の袖口に反対の手を差し入れ、一枚の紙を取り出してアスカの額にぺたりと貼り付けた。
 瞬間、ぎしり、と体中が強張る感覚に襲われる。

 「……ッ!?」

 まるで全身を糸で縛り付けられたかのように、指の一本も動かないどころか声を出す事すらできず、アスカはただ目を見開いて籽玉を見つめるほかなかった。
 籽玉はソファを立ち、ぼんやりとした瞳でアスカを見下ろして、聞き取れない程の声量で何かを呟く。途端にアスカの体が勝手に動きはじめ、靴のままソファの上に仰向けに横たわる形になった。
 ただただ目を白黒させ続けるアスカの胸と顔の横に籽玉が軽く手を付いて、脚の間へ膝を割り込ませる。
 ぎしり、とソファを軋ませながら圧し掛かり、吐息が掛かりそうなほど顔が近付いた。



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