自室で手早く着替えを済ませてダイニングに戻ると、籽玉がアスカの練習用の本を右手の上でぷかぷかと浮かばせていた。
「ふくっ……ついでだから確認してみたけれど、本のほうには問題はなさそうだね。 一寸やってみせてよ」
籽玉はアスカの湿った髪を見るなりもう一度短く笑い、本を卓上に戻した。
アスカは椅子に掛けて、促されるままいつものように本に魔力を込める。目を凝らしてそれを観察した籽玉が首を横に振る。
「うわっ、これは!! ……下手なだけだね」
「だろう」
「エティさん!」
しみじみと頷くエティに、アスカは再び顔を真っ赤にして縋り付き振り解かれる。エティはアスカの額を押し戻しながら涼しい顔で紅茶を啜った。
「今のやり方を例えるならそうだね、机と本の間に厚い紙でも差し込んで無理やり持ち上げようとしているようなものかな……だから滑るだけで持ち上がる筈ないのさ。 それを踏まえて……くくっ……はい、もう一度やってみて?」
口元を押さえて既に笑い出す寸前の様相の籽玉を横目でじろりと睨んでから、本に手を翳す。ひと呼吸置いて、アドバイスを噛み締めながら慎重に魔力を注いだ。
本がパタパタと音を立てながら震えるようにさざめいて、――グルンと勢いよく水平方向に回転し、そのまま吹き飛ぶようにテーブルを滑って壁に叩き付けられて落ちた。エティが細く長く溜息を吐く。
「……」
「あはははははは!!!! あはっあはははひっ……あっははムグッ」
「籽玉……」
アスカを指差して反対の手で腹を抱え、目尻に涙を浮かべながら笑い転げる籽玉の口を、琅玕が横からそっと掌で塞いだ。テーブルに突っ伏して耳まで真っ赤にするアスカに、琅玕は少し躊躇ってから言葉を掛ける。
「……これは多少の得手不得手があるから……あまり気を落としすぎない方が。 練習次第で上手くなる可能性もあるし……」
「うう……ありがとう琅玕……」
アスカは伏したまま目だけ上げて琅玕を見る。隣で足をバタバタとさせてまだくぐもった笑い声を洩らし続けている籽玉とは対照的な微笑。そのささやかな微笑みが優しすぎて、琅玕の背中に小さな白い羽根と、頭上に細いリングが見えるような気がしてしまう。
天使。 琅玕、マジ天使。
にへら、と破顔するアスカをよそに、ようやく笑いの波が去った籽玉の口から琅玕が手を外す。
「はぁあ笑った……笑いすぎて死ぬかと思った。 琅玕ったら、変に期待させるような事を言ったら可哀相じゃないか……くくっ」
「あのなぁ籽玉、マジで笑いすぎ! いくら何でも傷つくだろ……」
アスカはぼやきながら席を立って、壁際に落ちた本を拾い上げた。体を起こすのとほぼ同時に入り口の鳴り子の音が響く。
「客か……アスカ、店番頼む」
「あ、はい! りょーかいでっす」
エティに指示された瞬間に上機嫌になったアスカは、本を持ったまま笑顔でダイニングを後にした。その表情の変化ぶりを眺めて、籽玉は心底感心したように呟く。
「よく躾された飼い犬、って感じだね」
「……躾けた覚えはない」
「あ、『犬』は否定しないんだ」