全て洗い終わって調理台に戻し、普段の癖でコックを捻ろうと石のほうへ手を伸ばす。と、蛇口から出ていた水がぴたりと止まった。
一瞬の間をおいて、エティがアスカの手元を向く。
「次は何すれば」
「アスカ、お前」
「え? ……あっ!? 俺、今、水止めた!?」
シンクの下に掛けられているタオルで水気を拭っていた両手を体の前に出し、石と手のひらを見比べる。石へ手を翳し、自宅の流しでコックを捻るシーンを想像してみると、ドザァッ、と大量の水が溢れ出た。平たく薄い蛇口が反動で動く程の流量に、慌ててコックを閉めるイメージを浮かべる。きゅっ、と音がして水が止まった。
もう一度手のひらに目を遣ってから隣を見る。エティはアスカの手を見ながら無表情のままこくりとひとつ頷いてみせた。アスカの顔にゆっくりと笑顔が広がる。
「ま……魔法使えたぁあ!! もしかして今なら本も浮かせられるんじゃ……って本ないじゃん! プリントでいいやッ」
ついさっき空欄を埋め終えたプリントにまっすぐ手を伸ばし、昨日本に対してしたのと同じように、手で持ち上げるイメージを送る。ピシシ、と音を立てながら紙が細かくさざめいた。ゆるい風に煽られるように、ふらりとほんの少しだけテーブルから浮きかけて、そして。
バリッ
「あ゛――――!!」
プリントが四方から引っ張られたように引き裂かれて数枚の紙片となり、はらはらとテーブルに落ちた。それを呆然と見ながらアスカは両手で頭の左右を抱えた。学内で一、二を争うと囁かれるほど厳しい数学教師の怒りに震える表情が頭を過ぎる。破れたプリントを提出すれば鬼、提出しなればもっと鬼。
「やべえええどうしようどうしようどうしッ痛って」
「喧しい」
そんな事情など露ほども知らぬエティが、壁際のシェルフから本を一冊手繰り寄せてアスカの後頭部へその角をクリーンヒットさせた。本はバタリとテーブルの上に落ちて、風圧で紙片のひとつを床に落とす。
「あっちょ、失くしたらマジでヤバイんですって!」
慌てて紙片を拾い上げ、数十秒前の自分を呪いながら他の4枚と一緒にクリアファイルへ挟み込む。プリントの今後については後で考える事にして、エティが置いた本に手のひらを向けた。持ち上げようと意識を集中するが、テーブルの上で少し動いただけで浮かび上がりそうな気配はない。
「やっぱ浮かないや。 なんで水は出せたんだろ?」
「推測だが……水道はじめ、家の中の魔法道具はただ魔力を流せば作動する単純な仕組みなんだろう。 魔力を行使して物を持ち上げるより簡単なのか……一度、詳しい奴に聞かないとわからん」
話を切り上げたエティがシンク下の戸から包丁を取り出して、野菜の皮を剥きはじめた。
アスカは恐る恐るコンロのほうへ手を向けようとする。
「やめろ。 爆破でもされたら堪らない」
「……ハーイ」
エティが手元に視線を落としたまま、言葉でアスカの手をぴしゃりと叩く。アスカの脳裏にプリントが四散した様が浮かんで、伸ばしかけた手を引っ込めた。まさか、と笑おうとするが、あながち冗談じゃ済まないかもしれないと思い直して黙って頷く。
「他に手伝えるこ」
「ない」
「でもな」
「座ってろ」
心底うざったそうに呟かれた台詞に、アスカはすごすごとテーブルへ戻る。宿題は色んな意味で終わってしまったし、端末に電波が入らない以上は他にする事も無い。椅子に逆に腰掛けて背凭れに腕と顎を乗せ、エティが調理している姿を眺める。
ぼんやり見ているだけのつもりが、エティの思いのほか器用な包丁さばきに、その細い手首に、思わず見惚れた。肘まで捲った袖から伸びる白い腕と自分の腕とを見比べて、何かの拍子に簡単に折れてしまいそうだ、と要らぬ心配をしてしまう。
野菜や肉を切ったり、炒めたり。普通の調理風景と何も変わらないというのに、不思議と飽きることがない。妙な微笑ましさがこみ上げてきて、自分では気付いていないが、アスカの表情はひどく緩んでいた。
「何かもっとこう、野菜切ったり炒めたりとか、魔法で色んなことを同時進行でやるのかと思ってたけど……普通なんですね」
「お前は両手両足いっぺんに、別々の事を器用にこなせるか」
「無理デス」
「……まあ、器用な奴が訓練したり魔法道具の力を借りれば、その限りじゃない。 出来る奴は出来る」
「ふーん……俺もそのうち出来るかなぁ?」
「……」
考え無しに何気なく言ってみた台詞にエティの背中が呆れているように思えた。プリントを引き裂いた事をまた思い出して、アスカは自ら言葉を訂正する。
「無理かもしんないですね……」