A4判一杯に詰め込まれた応用問題の最後の数式を解いて、ペンを投げ置いて息を吐く。宿題のプリントを埋めるのに小一時間ほど使っただろうか?ふと思い立って、ブレザーのポケットから端末を取り出す。圏外の二文字を確認してから時刻表示に視線を移し、目を疑う。
大きくデジタル表示されているはずの時計が文字化けしているように見えた。端末自体の表示がおかしいというよりは、目が、脳が、読み上げることを拒否しているような妙な感覚。凝視していると、くらりと眩暈に似た不快感に襲われて、目を瞑って頭をぶんぶんと振った。
耳元にまた鳴り子の音が響いたすぐ後に扉が開いて、エティがダイニングに戻る。
「エティさん、今何時?」
「七時」
「ちょうど?」
「……六時五十六分」
エティは時計を二度見た後に机上のプリントへ視線を落とした。少しだけ目で数式をなぞり、すぐに興味なさげにキッチンへ向いた。ポットの中の茶葉を捨てながら、ふと思いついたように口を開く。
「飯、食べていくか」
眉根を寄せて端末と睨めっこしていたアスカが顔を上げた。言われてみればそろそろ家で夕飯を食べはじめる時間、空っぽの胃が空腹感を訴えかけてくる。
「いいんですか?」
「簡単なものしか作れないが……」
手に持っていた端末を思わずばん、と勢いよくテーブルへ叩きつける。直後に画面が心配になってそろりと端末を返すが特に異常もなく。騒音に振り返っていたエティへ改めて興奮気味な視線を向けた。
「エティさんが作るんですか!?」
「他に誰がいる。 不満か」
「とんでもないです! ご馳走になります!!」
「興奮する意味がわからん……。 店、閉めてくる」
エティは首を傾げながらまた店の方へ出て行った。耳元で聞こえる鳴り子の音と共にアスカはふと冷静になって、一人苦笑しながら首をゆるく左右に振った。
いやいや、エティさんの言うとおり。 なんで俺、こんな興奮してんだ……。
端末を手に取って念のためにもう一度画面を検め、液晶にも異常がないのを確認してポケットに仕舞った。落ち着いたつもりが、依然胸は少しだけ高鳴っている。一度浮かんだ、手料理、という言葉が頭の中からなかなか消えてくれない。男相手に手料理で喜ぶ自分とは一体何か。いい加減笑えなくなってきて、浮かべ続けていた半笑いが引っ込む。
戻ってきたエティが、冷蔵庫のような物やキッチンの端の籠から食材を取り出して調理台に並べていく。好奇心を煽られ、席を立って覗き見る。野菜類に、クラフト紙のようなものに包まれているのは肉類だろうか?どれも普段アスカが目にしているものと違わないように思えた。
ブレザーを脱ぎ、椅子の背凭れに掛けてエティの隣に立つ。
「何か手伝わせてください」
「料理の経験は」
「ないっす」
「座ってろ」
一瞥もされずにばっさりと切り捨てられた。食い下がろうにも、小中学校での調理実習の記憶さえ曖昧で、料理について一つも知識が無い頭ではなにも思いつかず。カーディガンごと腕まくりするエティをあうあうと口を開閉しながら黙って見下ろした。
暫しの沈黙の後、根負けしたようにエティが大きく溜息を吐いた。調理台の上の野菜類を指差す。
「これ洗え」
「はーい!」
母親の手伝いを申し出た子供のような声を満面の笑顔と共に返してシャツの袖を捲り、乾いた土の付いたじゃがいもを手に取った。水を出そうと反対の手を出し、はた、と動きを止める。
「エティさん、流しに取っ手がない」
一般的なものと何も変わらないように見えたシンクの蛇口部分に、水を出すためのハンドル類が見当たらないのだ。本来備わっていそうな場所には、青と赤の薄い板状の宝石のようなものが一対はめ込まれている。
エティはさっきよりも大きく溜息を吐いて、青いほうの宝石に軽く手を翳す。蛇口から水が流れ出はじめた。
「うわー地味に便利だ……うちにも欲しい」
泡のついた両手でも簡単に水が出せる、などと取り留めない想像をしながら、流水で土を落としていく。逐一指でごしごしと熱心に洗っていると、そんなに躍起にならなくていい、と呆れたような声が横から掛かって照れ笑いを浮かべる。