教師、中でも生徒からの評判の悪い教員という生き物は、突然始めた世間話に殆どの生徒が関心を持っていない事に自分では気が付けないものなのだろうか。遥か昔に生徒の立場だった頃同じような思いをしただろうに、それも忘れてしまっているのだろうか。これさえ終われば帰れるという生徒の焦れすら慮れない故に評判が悪いのか。
普段のショートホームルームならば連絡事項を伝えるだけで五分と待たず終わるというのに、上機嫌な担任教師による私生活のひけらかしが始まってから、黒板の上に据え付けられた時計の長針は十五回も移動した。
最も窓側の後ろから二番目という好物件に着く飛鳥は、今日最後の授業終了と同時に荷物を放り込んだ鞄を肩に掛けたまま、椅子に浅く腰掛けて教師の顔と時計との間で忙しなく視線を往復させ続けている。話が終わると見せかけたフェイントを食らう事、かれこれ三回目。
ずっと意識しているせいで秒針が三秒に一度しか動かないような錯覚を覚えるのかもしれないと思い至り、無理やりに時計から意識を引き剥がす事にした。
左手甲の擦り傷に視線を落とす。その手を顔にやると、頬へ横向きに走った切り傷を覆うかさぶたの感触がざらりと指先に伝わる。
昨日は、後ろ髪を強く引かれつつもそのまま家路に着いた。現実的に考えて、古書店での出来事は全てただの白昼夢だったのかもしれないと落胆しかけていた頃に、家族にこの傷を指摘された。鏡を覗き込んで、生垣を抜けた時に枝で左頬を裂かれたのだと気がついた。
あの古書店も、本の海で眠っていた美しい少年も、無数の本を動かす魔法も、夢じゃなかったんだろうか。
それを確かめたい。
耳に残る彼の声を、もう一度聞きたい。
……だから、早く帰りたいんだって!
頬から手を外して顔を上げるのとほぼ同時、ようやく担任教師が満足げに話を切り上げた。日直の棒読みでの起立と礼もそこそこに席を蹴って慌しく廊下へ出る。
とうにホームルームを終えた他のクラスの生徒たちを掻き分けそのまま昇降口まで一直線……に駆けようとしかけて、教室から顔を覗かせた級友に呼び止められる。遊びの誘いを受けたが、「ゴメン」と顔の前で掌を合わせて断りを入れた。
倒けつ転びつ帰り道を急ぎ、変わらぬ場所に口を開けた路地に安堵の息を吐いたのは、昨日踏み入ったのとほぼ同じ午後五時前だった。
端末をポケットに仕舞って小路を走り抜ける。いつの間にか変わる空気と景色に、獣道のような穴のあいた藪。胸の内から込み上げる言いようのない感情に、自然と表情が緩んだ。
外から開いた扉の音に顔を上げたエティの澄まし顔に僅かな驚きの色が浮かび、手元の本を栞も挟まずパタリと閉じてカウンターの上に置く。
その周囲には昨日よりもうず高く積もった本の山。アスカには自分の身長も越えていそうな山に囲まれて椅子に腰掛けるエティの姿が余計に小さく見えて、ついつい顔を綻ばせた。
「こんにちは、エティさん」
「……本当に来たのか」
すぐに表情を引っ込めたエティの相変わらず独り言のような呟きに、後ろ手に扉を閉めながら頷く。
「昨日言ったじゃないですか、また来てもいい? って。 ……駄目でした?」
「……何言ってる、さきおとといの間違いだろう」
「え?」
カウンターの向かい側で怪訝そうに返すアスカを見上げ、エティは眉根を寄せて小さく首を傾げた。ようやく目が合った、と嬉しそうに真紅の瞳を覗き込むアスカから、すぐについと目を逸らす。