「浮かねえええ!!」
何十回目、ひょっとしたら三桁に及んでいるかもしれない挑戦に失敗して、アスカはとうとうテーブルに突っ伏した。飽きもせず、だが相変わらずつまらなそうな表情のまま見守り続けていたエティが欠伸を噛み殺す。持ち上がりかける確率は確実に上がって来てはいるものの、テーブルから本が完全に離れる事は一度もなかった。
テーブルに伏したまま顔だけ上げて、薄々感じていた嫌な予感を引きつりながら口にする。
「もしかして、俺……才能ない?」
「知らん。 普通は生まれた時からできる」
「嘘ぉ……」
生まれたばかりの赤ん坊が本を浮かせる場面を想像して、アスカは再度腕に顔を埋めた。
かと思えばぱっと頭を上げて室内を見回し、自分の背後に窓を探し当てる。真っ暗になった外を視認してテーブルから体を起こした。夢中になるあまり忘れていた空腹感が襲ってくる。
「あれ? 今何時?」
エティに無言で指し示された壁の時計は文字が読めない上に、アスカの見知っているものより針が二本も多く、当然、何も読み取ることができない。
「……十時前」
「マジ!? やっべ門限が……。 すいません、ちょっと電話します」
慌ててブレザーのポケットに手を突っ込んで端末を取り出すが、その電波表示を見て驚愕する。
「圏外!? このご時勢に圏外!? どんだけ!? うわああヤバイヤバイヤバイ帰んないと!!」
勢い良く椅子を立ってその横に立てかけていた鞄を引っつかんで肩に掛け、カップを手に取り残っていた紅茶を飲み干した。カシャンと音を立ててカップをソーサーに戻し、エティに向いて短く二言掛ける。
「ごちそうさま! お邪魔しましたッ」
扉を潜って店内へ出て、けたたましく鳴子を揺らしながらドアを開け放ち、ばたばたと慌しく外へ転げ出る。外気にひやりと頬を撫でられながら石畳を駆けて坂を下り、店の裏手に回った。
周囲に灯りはなく、生垣は真っ黒な三枚の壁にしか見えない。確か、と当たりを付けた箇所に近づき、端末を生垣へ向けた。頼りないバックライトが薄ぼんやりと枝葉を照らす。左右に動かして辺りを探ると、自分の体で開けた穴を辛うじて発見できた。
「……アスカ!」
後方から呼び止められ、アスカは一つ尋ね忘れを思い出しながら振り返った。離れた場所で立ち止まるエティに届くよう、口の横に手を当てて声を張る。
「エティさん、俺、明日も来ていい!?」
「っ……」
一瞬の間を置いて、彼は頷いたように見えた。
「じゃあ、また!」
頭上で大きく手を振ってから、がさがさと生垣に入り込む。来たときよりずっと楽に通り抜ける事ができたが、よく整えられた生垣に派手な穴を開けた事に少しの罪悪感を覚える。
口の中に入ってきた小さな葉を吐き出して、暗い道を焦れつつも早足で歩いた。出来る事なら走り出してしまいたかったが、真っ暗闇の中そうするわけにもいかず、端末の灯りだけを頼りに来た道を戻る。
高校に入学してからはじめて門限を、それもたかだか十分程度破ったとしても、恐らく叱られる事もないだろう。とはいえ、余計な心配は出来るだけ掛けたくはないのだ。
ほんの一瞬だけふっと体が浮くような感覚と共に、周囲の景観が見慣れきったものに戻る。明るさに目が眩みながら上を仰ぐと、塀の隙間から夕焼け空が覗いていた。
「……え?」
今度こそ走って路地を抜け、元の通りに抜ける。呆然としつつ手元の端末に視線を落とした。電波表示は通信可能、時刻は――午後五時十五分。念のため日付にも目を遣るが、何の異常もない。
「……嘘? どゆこと?」
路地を振り向いて呟いた。掌に残る細い肩の感触を確かめるように、軽くその右手を握りながら。