開け放したままの通りに面した窓から、小鳥のさえずりとどこかの家の朝食の匂いが入り込んでくる。春の甘い風がカーテンを揺らし、小さな花弁が部屋に舞い込んだ。眠りの世界から意識が呼び戻されて、スピネルはうっすらと瞼を開ける。
それと同時に何者かの気配と腹部への圧を感じて、
「ぅぐはッッ」
情けない声を上げながら、一瞬でまどろみを通り越し意識を覚醒させた。仰向けの腹の上に、コロコロと笑う少女が弾む。
「おはよう!」
寝起きの頭に響くボリュームで朝の挨拶をしてくるアリシャをベッドの外に押しやり、スピネルは身体を起こした。機嫌のいい日の朝はこんなふうにじゃれ付いてくるのだ。が、長年の兄妹のような関係と慣れとが相まって、今更照れたりどぎまぎしたりする気分にはこれっぽっちも至らない。
「今日も仕事行くんでしょ! 朝ごはんできてるから、早く降りてきなさいよ」
「ああ……」
スピネルは欠伸をかみ殺す。
「あっ」
部屋を出ようとしたアリシャが立ち止まって室内へ向き直った。人差し指を立てる。
「ついでにシャンティエ君も起こして来てね!」
「は? ……何で俺が、」
言い終わる暇も与えずドアを閉められ、足早に階段を降りる音が響いてくる。スピネルは頭を掻いて舌打ちした。頭の中からすっかり抜けていた昨日のあれやこれやが、全て夢だったらよかったのにと思う。
寝巻きからいつもの黒い服に手早く着替え、手櫛で適当に寝癖を押さえつけながら隣室のドア前に立つ。二、三度ノックするが、返事は無い。
強めにもう数回扉を叩いても反応がなく、無音がスピネルの警戒心をざわりと煽った。躊躇わずノブを回し、ドアを開け放つ。
スピネルの部屋とかなり似た家具の配置。まったく同型のベッドの上に、薄紫色のふわふわとした物体が乗っている。室内に踏み込むと、
「んん―……」
足音にぴくつく大きな耳。横向きで枕を抱くように眠っているのは、紛れも無く昨日拾ってきた亜人の少年だが。
華奢な上半身はおろか腰から下の獣と同様の下半身まで曝け出したまま、一糸纏わぬ姿で眠りこけている。ふわふわの物体は、その大腿部だったようだ。年端もいかないような少年の姿とはいえ、朝から男の裸を見るのは気持ちのいいものではない。時間がどうあれ気分が悪いのに変わりないだろうが。
アリシャに起こさせなくてよかった。とほっとしかけるが、彼女の場合は男の全裸くらいでいちいち怯んだりはしないだろうと失礼極まりない方向へ考えを改める。
雑に脱ぎ捨てられ床に散らばった服を避けつつベッドの傍らに立つと、スピネルはシャンティエの片耳をつまみ上げた。
大きく息を吸う。
「うう……いってぇ」
シャンティエは階段を降りながら伏した右耳を摩っている。前を歩く黒い背中を恨めしそうに睨んだ。
「もっと優しい起こし方してよぉ……大体、オレは朝が苦手なん……ふわーぁあ」
大きな欠伸に語尾を濁らせて、生理的な涙の浮かんだ目尻を擦る。
「それと……着替えがあるならはじめから着てろ、見苦しいんだよ」
今日のシャンティエはやはり異国風の、しかし昨日とは少し違った意匠の衣服を纏っている。昨日の服と同じように薄い素材、トップスは袖がないうえに臍の上までの短い丈。数着持っていても旅の荷物としてあまり嵩張らないのだろう。
「寝るときは服着ないでしょ、野宿ならともかくさぁ」
当たり前じゃん、と付け足された言葉にスピネルは返事をせず、酒場の席に着いた。
高い位置に切り取られた窓から射す柔らかな朝の陽光。照らされたボトル群が店内にカラフルな光を散らす。開店前の酒場は、誰もいなくても酔客による日頃の喧騒を思わせるせいか、余計に静まり返っているように感じる。
昨日は他の宿泊者もなく、朝食用にテーブルセッティングされているのは1つの卓だけだ。スピネルの斜め前の席にシャンティエも腰掛け、パンの焼ける香ばしい匂いにうっとりと目を細めた。
「シャンティエ君、おはよう」
カウンター奥のキッチンから籠にパンを乗せて運んできたアリシャが笑いかける。
「おはよーアリシャ。 いい匂いだね」
「朝ごはん、今運ぶから。 たくさん食べてね」
「はーい!」
アリシャがキッチンとテーブルとを何度か往復する。今日の朝食は野菜の詰まったオムレツに大ぶりのソーセージ、ブロックベーコンのスープにスコッチエッグ、生クリームとベリーてんこ盛りのパンケーキ……などなど。
スピネルからすると、アリシャは普段よりも気合を入れて朝食を拵えたように伺えた。宿泊客がいる時と身内しかいない時とではランクが違うのはいつもの事だが、それ以上に。
とはいえ、タダ同然で居候させて貰っている身としては文句を言う立場でないし、その気もない。
アリシャが席につくのを待ち、三人揃ってから食べ始める。
「おじさん出かけてるのか?」
いつもなら一緒に食卓を囲むはずのマスターの姿が無く、スピネルが訊いた。
「朝方から急に呼び出されてウィアに向かったわ。 たぶん、例の亜種の事だろうって」
「ああ……」
ウィアの街は、ここスティタの西の隣街にあたる。帝都から南北に伸びる、大陸を縦に貫く最大の街道に面した大きい街だ。ギルドの同盟本部が置かれていて、会議などの場合ギルドマスター達はそこに集まる慣わしになっている。
「亜種って? ナニ?」
シャンティエがアリシャに問うた。彼女は細い眉を潜めて口を開く。
「出るのよ、最近。 強い魔物が……。」
『例の亜種』。すこし前から複数報告されている、既存の魔物の変異体の事だ。
現れた魔物が普段より遥かに大型だったりパーツの数が多かったりと、どこかいつもとは違った特徴を持つものをまとめてそう呼ぶようになった。大陸西部での目撃報告が多く、東寄りのスティタ近辺に出現した事はない。
軒並み元の種よりも手強く、運悪く遭遇すると敗走したり仕留め損なって逃がしたりする事が殆どなのだが、これまでに何体かは討伐された後持ち帰られ帝都などで研究が始まっている。が、未だ出現する原因や条件など何も掴めていないのが現状らしい。元々、魔物自体どこから涌いているのか誰も知らないのだから、それも無理はない。
西方のギルドでは何人か犠牲者も出ていると聞く。ここ最近の、ギルドマスター達の頭痛の種だ。
「へーえ、聞いた事ないなぁ。 他所の集落がどうかは知んないけど」
「いつこの辺りに出るかもわからないし……怖いわ」
少し前。十人という大人数で亜種に挑み、死闘の末に撤退して来たパーティの話を耳にした。集団での狩猟を基本とする大きめのギルド、中でも選りすぐりの精鋭達によるパーティがあっという間に劣勢に立たされたその魔物が、今まで報告された中で一番強力なものとされている。
正直、尾鰭が付いた話を聞かされた気がしているが、もしそんな魔物がこの辺りにも現れ、万が一街に向かって襲って来たらと考えると流石のスピネルも不安を覚える。
魔物が自ら何かしようという意思を持って動いたような話はかつて聞いた事がない。けれど、イレギュラーな存在が変則的な行動を示しても何ら不思議はないのだ。
「シャンティエ君、おかわりあるからね」
「ふぉう」
シャンティエは口いっぱいにオムレツを含みながら拳を前に突き出す。親指を立てているつもりなのだろうが、猫の手の親指は短いらしく、単なるグーにしか見えない。アリシャはそれをくすりと笑う。
「そうだ。今日ね、早速依頼を受けてもらいたいんだけど。いいかな?」
「んむ? ひいけど」
スピネルは頷き合う2人を交互に見て、怪訝な顔で口を挟む。
「『緊急』、来てないだろ」
日頃スピネルが出向いているような大型の魔物を討伐する依頼を受ける時は、『緊急』扱いで舞い込んで来たもの以外は原則的にに四、五日前までにギルドに話を通しておかなければならない。危険を伴うが故の報酬額の大きさが主な理由で、依頼者とギルドが改めて依頼内容の摺り合わせを行う時間が必要な為だ。要するに「報酬金、ちゃんと払ってもらえますよね?」「ええ払います」の確認の為なのだが。
依頼額が通常より高く旨みの多いその『緊急』依頼も、片田舎のこの街では滅多に入って来る事はない。
「ないわね」
言葉とは裏腹なアリシャの明るい声に、スープを飲むスピネルの手が止まった。顔を上げて、彼女の笑顔を凝視する。
「報酬、ちょっと色つけるから……今日のお仕事、一緒に行ってきてね」
「ふざけるな!!」
スピネルは手荒く卓上に匙を置いた。
「狩場への案内もしなきゃいけないんだから丁度いいじゃない。 暫くはシャンティエ君の研修って事で一緒に行ってもらうわよ」
「依頼を受ける側の自由は、んぐッ」
声を荒げるスピネルの口にパンを突っ込み、アリシャは笑顔を引っ込めた。スピネルの機嫌を伺うような猫撫で声から打って変わった、覇気すら含んだ声色で言う。
「ギルド側が、1人で受けるのは危険な依頼って判断した。 ギルドの決定。 わかる?」
「……ッ」
有無を言わさぬ口調で噛み砕くように告げると、コロッと笑顔に戻って胸の前で手を合わせた。これで万事解決ね、と呟かれた台詞に、ようやくスピネルは彼女の思惑を悟る。
いつこの辺りにも亜種が出るかわからないんだからと、アリシャはこの頃スピネルに他人と組んで仕事をするようにとしつこく持ちかけて来ていたのだ。それを、ソゥルーナで一番実力があるのは現状自分だという理由で突っ撥ね続けていたのだが。
「そういうことか……ッ」
「なんのこと?」
呻くスピネルに、アリシャは涼しい顔。昨日からの態度といい朝食の凝りようといい、彼女は妙にシャンティエを気に入っているなとスピネルは思っていたのだが、どうやら彼をギルドに引き入れた理由はスピネルを一人で狩りに行かせないようにする為だったらしい。立派な大義名分だ。
ギルドの決定という言葉を出されればスピネルに逆らう権利はない。おそらく、昨晩のうちに父親から一連の許可を得ていたのだろう。日頃は言葉こそ少ないマスターだが、単独でのみ狩猟を行うスピネルの身を案じていた一人なのだ。反対する理由がない。
「そういう事だから、シャンティエ君。 暫くコイツと一緒に依頼を受けてね」
シャンティエはがっくりと項垂れるスピネルと弾ける笑顔のアリシャとを見比べた。してやられた男としてやった女。
「お……おう、わかった」
後者には逆らうべきではないと理解するより早く本能で感じ取り、ぎこちない笑顔で頷いた。