外はすっかり日も落ちて、空には星が瞬き始めていた。酒場の前を行き交う人々の足取りも帰路につく慌しさを帯びている。
「ああ旨かった! ここの店、めちゃくちゃ飯がうまいなー。 おかげで生き返った」
半ば無理やり店の外に引っ張り出されたシャンティエは膨れた腹をさすって暢気に言った。
「そりゃあ、何よりだな」
スピネルは片眉をぴくぴくさせながら頭ひとつ背丈の違う相手を見下ろした。その表情を見て、シャンティエはしおらしく耳を後ろに倒す。
「あー……金、返さなきゃだよな」
心底困ったように、くるくると視線を宙に彷徨わせて思案する様子。スピネルは暫しそれを眺めて嘆息した。しっしっ、と手を振る素振りをして冷たく言い放つ。
「アテがないならいい。 とっとと、どこか行け」
「そういうわけにはいかない」
刺々しさを繕いもしない言葉。だが、シャンティエは動じない。
「金出した本人がいいっつってるんだからいいんだよ、…………さっさとどこへなりと消えろ」
言葉の途中で、店から出てきたアリシャに聞こえないように声を潜めた。店先のランプを灯す彼女の視界に入るまいと背を向け、ずりずりとシャンティエを引っ張って彼女から距離を取る。
「消えろって言われてもさ……実は、ここがどこなのかも分かんないんだよねぇ」
頬を掻きながらのほほんと吐かれた台詞に、スピネルは往来にも関わらず頭を抱えて蹲りたくなった。面倒くさい、関わりたくない。なぜ荒野でコイツを拾ってしまったのか。捨て置けばよかったんだ。後悔ばかりが頭の中をぐるぐると巡った。
そんな彼の背後から、高く通る声がかかる。
「お金もなくて、ここがどこかも分からなくて……一大事じゃない」
「うっ……」
二人の後ろからひょこりと顔を出したアリシャは、顎に手を当てて何事かを思案していた。
スピネルはその瞳の輝きかたに嫌なものを感じて、彼女の背を押して店の方へ追いやる。
「お前には関係ないだろ」
「なによ、除け者にして」
アリシャは頬を膨らませてスピネルの腕を払った。その手に、さっきよりも軽くなった布袋が乗せられる。
彼女はシャンティエに視線をやり、彼を上から下まで二往復ほど眺めたかと思うと、不意の思い付きをそのまま言葉にする。
「けっこう腕が立ちそうよね」
「ん? まあ、それなりにね」
シャンティエはにやりとして、片手を持ち上げて力を込めた。ふわふわの体毛に包まれた手から、鋭く尖った五本の爪が飛び出す。
「わぁすごい、それで戦うの? 魔物を狩ったりもできる?」
「そんくらい朝メシ前! 今まで負けナシだぜ」
大きな肉球のついた手をグーパーさせて爪を出し入れしながら答えた。それを聞いてアリシャは満足げに笑む。
「じゃあうちのギルドで、」
「やめろ」
彼女の言葉にスピネルの静止が被さる。両者はしばし睨み合うように黙り、先に口を開いたのはスピネルの方だった。
「どこの誰だかわかんねえ奴ををむやみに引き込むな」
強い口調には苛立ちの色が浮かんでいた。アリシャは怯まずに返す。
「悪い子じゃないわ、絶対」
言い切る彼女の口調には迷いはなく、意地や虚勢だけで言い返しているわけではないことを伺わせた。
「私がお父さんに話をつける」
「……ッ」
強気な瞳。
(いつもそうだ、自分勝手に!)
胸の中だけで怒鳴ると、スピネルはその瞳から視線を反らした。
彼女と同様に人のいいマスターが、この話を断るとは到底思えない。シャンティエのギルド入りは確定したも同然だ。
「ギルドって? 何?」
取り残された話の当事者はアリシャに訊いた。彼女はシャンティエを向くと満面の笑みで答える。
ギルドとは、様々な人からの多種多様な依頼を引き受ける窓口を指す言葉。依頼者から支払われる報酬の一部をギルドの運営資金として引かれるかわりに、所属するメンバーは統括された窓口によって依頼を受けやすくなるという持ちつ持たれつの関係である。望むなら他のメンバーと組んでの仕事や、周辺の地形や魔物の情報などの恩恵を受ける事もできる。
ソゥルーナもそのひとつで、ギルド自体の人数や規模は小さいが酒場と併設しているため、他と較べて上納金の割合が少ない良心的なギルドだ。依頼内容も、迷い猫探しからパーティを組んでの巨大な魔物討伐までバラエティ豊か。……後者のような魔物が現れることは、そうそうないが。
「初心者大歓迎のうちでならきっとキミに合った依頼を受けられるわ。 そうしてお金を貯めたらいいじゃない?」
「ふーん、なるほどな」
「今なら当面の宿も確保してあげられる。 まあ、うちの2階の宿泊スペースなんだけど……宿代は、何か依頼をこなして報酬を受け取ってからの後払いでいいわ」
「いいの? そんじゃ、そうさせてもらおっかな」
「決まりね!」
考量する素振りをほぼ見せず、まさにふたつ返事でシャンティエは頷いた。忌々しそうな顔をしたスピネルの前で少女と亜人の握手が交わされる。
「野宿はもうヤだしね」
シャンティエが顔の両横で結った髪の片方を持ち上げて言った。大きな髪飾りは砂埃で汚れ、外灯の明りを鈍く反射している。後ろ髪は短いくせに、顔の横の毛だけを伸ばしているのだろうか。髪飾りの形や大きさといい、スピネルはどうにも見慣れない。
「それじゃあ、案内するね」
アリシャはギルドのドアを開くと、とびきりの笑顔で言った。
アリシャに付いて部屋や風呂、トイレなどの説明を一通り受けたシャンティエは、割り当てられた部屋のドアを開けた。
戸口を潜ろうとして、薄暗い廊下の向こうから聞こえた足音に動きを止める。音の方向をじっと見ていると、やがて仏頂面と目が合った。
「……隣かよ」
斧槍や軽鎧を外し部屋着に着替えたラフな格好で、苦虫を噛み潰したような表情のスピネルが言った。シャンティエの後ろを通って、廊下の端、階段向かいの部屋のノブを回す。
「あれ? 何でいんの? 泊まるの?」
シャンティエがきょとんとして尋ねた。
「住んでるからだ」
「あ、そうなんだ」
納得して、表情がぱっと明るくなる。酒場に着いてからスピネルが耳にした彼の声は、殆どずっと歯切れよく快活だった。彼の陥っている状況は到底楽観視できるものではないはずだが、何がそう明るくさせているのかスピネルにはわからない。何か考えがあるのか、あるいは何も考えていないのか。
「ありがとな、今日は」
シャンティエはぴょこんと頭を下げた。スピネルは無言のまま片手を挙げて返し、自室へと引っ込んだ。
ドアを閉める刹那「また明日な」と聞こえたのは気のせいだという事にしておく。